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▼獅子彫師 遠藤森助の資料より

獅子彫師 遠藤森助の資料より/
 現在、長井市勧進代総宮神社の遠藤森助の獅子頭をモデルに獅子頭制作を行っている。

獅子頭の木地は完成し、昨年10月から漆工房で塗りの工程に進んでいる。



森助の作の獅子頭は口伝では文政元年(1818年)の作と説があるが、その記名は獅子頭に

は塗り替えの為か見当たらず、獅子箱は明治5年と明治26年、鈴木康之の作の平成期の獅子

箱三台が所蔵されている。




上が明治26年、下が明治5年の獅子箱 下の箱が少し幅が広い




森助獅子の箱は明治5年と明治26年のどちらの物なのか限定されてなく獅子頭奉納と同時に

作られているかも記録されていない。明治26年頃に長谷部吉之助の作の獅子頭が同じ木の

木地三頭が勧進代と白兎、西高玉の獅子と伝えられ明治26年記名の獅子箱は長谷部吉之助の

獅子箱と推測される。

 


 さて、昨年12月西根コミセンの高橋館長から遠藤森助に関する資料についてご連絡を戴き
資料を提供されたのでご紹介したい。高橋館長は草岡の獅子頭制作の際にお世話になり面識
があった。 

               以下資料内容

 
   『勧進代総宮神社「盛助獅子」について(資料提供 高橋政敏家)(文責遠藤充)』

     ☆初代「森助」
      
        ◇生年月日は不明
        ◇没年(墓石から読み取るに)天保十一年(1840)11月21日
         森助は百姓をあまりせず、絵・彫刻などをしてその日暮らしの生活。
         それでは、僅かながらの農地と家屋敷が消滅と考え、同じ岡組みの
         遠藤岩次家(遠藤幸男家)の次男「与惣次」を養子に迎える。

     ☆2代目「森助」

        ◇上記「与惣次」を父に母「くめ」(小野川)の間に次男「春次が
         明治5年(1872)生まれ、成長の後2代目・森助と改名する。
         没年は昭和18年11月71才

         私は(遠藤充)下記の文章(高橋家創設の由来)を見て
         「森助獅子」の製作者は二代目森助と断言出来ます。
         それは、私の養父(故遠藤幸作)の森助獅子にかかわる
         話の中に、制作者の個性の話として、稲を干す「ハセバ」
         を作る際、縄を切るときは、手が不自由なので縄を口に
         くわえ思い切りよく、引っ張って切るなど、とても器用な
         人だったらしい話と、獅子の材料は「梅ノ木」だと私が
         婿に来た当時、教えてもらった記憶が有ります。
          没年は昭和18年と有りますので、獅子の製作は昭和
         の初めの頃の様に考えられます。

☆遠藤家「新家」高橋家創設の由来

      ー遠藤家第2代・与惣次、妻ーくめ・長男「富太」が小野川・高橋家「きみ」
      に婿養子に入る。そのご小野川の家が火災消失、妻と子供4人と共に勧進代に
      戻り、実家である遠藤宅にしばらく仮住まいとなり、そこで現在地に高橋姓の
      まま「新家」の創設となった。遠藤家から嫡子である長男を養子として出した
      訳は、二男(春次・後に二代目森助と改名)が小児麻痺?で右手が不自由であ
      ったため他家へ養子に出すことができないので、家に残すこととし、代わりに
      長男を出すことになったものと推測される。

  以上、遠藤 充氏が調査した文章である。

 この文章の中で、幾つか新しい事実が判明した。

  1. 遠藤森助の名前は2代にわたって引き継がれた事

初代森助は天保11年(1840)没であること。

とすると初代森助獅子が文政元年(1818)に作られたという説によれば22才の頃となる。

以前このブログで五所神社山ノ神神社の御神体の奉納札を発見した話を掲載している。

天保14年御神体の彫刻は勧進代村の遠藤盛(森)助眞則で、初代森助没後の記名であ

るが初代の作だろう。この時、森助の「諱(いみな)」が眞則(まさのりor?)であると

分かった。

 



     2.森助獅子を作ったのは2代目森助(春次)遠藤充氏説


 遠藤充氏説によれば、勧進代総宮神社に奉納された遠藤盛助の作の獅子頭は2代目森助

(春次)とされ、昭和初期頃という説である。

   



   文政元年の作という口伝説の観点からすると幾つかの疑問点が浮かんでくる。



   2代目盛助(春次 明治26年生まれ昭和18年没)が昭和初期に作ったとすれば、

その獅子箱の所在はどうだろう? 昭和初期の獅子箱は確認されていない。

   現在も獅子頭は大事に獅子箱に納め宮守によって保管されるのが慣習となっている。

   また、森助獅子は大型で巻毛の彫りなどは精巧で、近辺の神社には見られない構造

   や様式が見られる難しい彫刻であり、相当な知識や技量や情熱を要する。

   2代目森助の身体的にハンディはその制作に耐えうるものかどうか懐疑的である。



   勧進代総宮神社森助獅子と同作風の獅子が朝日町杉山神明神社に残されている。

   その獅子頭をモデルに平成11年制作している。また、平山北向見渡神社や白鷹町

   広野元皇太神社(現在同所観音堂所蔵)などに残されている。初代森助の作か疑

   わしく、初代の初期の作か2代目森助の作とも考えられる。

   


    初代森助が家が傾くに至るほど、家業の農業を放棄し絵画や彫刻に勤しんだとい

   う逸話や五所神社御神体彫刻の事実こそ、文政元年 初代森助が勧進代総宮神社の

獅子頭を制作したという証では無いだろうか。今回、森助獅子の作者について結論

   が出たという事では無く、念願だった遠藤森助のプロフィールが徐々に明らかにな

   った事、貴重な資料を残された遠藤充氏に感謝の意を述べたい。


   

   





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