ヤマガタンver9 > 文禄四、五年の謎

Powered by samidare

▼文禄四、五年の謎

◆◇◆文禄四、五年の謎◆◇◆

 文禄四(一五九四)年八月、秀次事件で駒姫が三条河原で刑死した。その二七日(ふたなのか)には、妻が急死した。愛する者二人を一挙に失った義光の悲嘆、いかばかりか、自らは閉門蟄居。連歌の師里村紹巴も財産没収のうえ、近江へ流罪。最上家にとっては存亡に関わる重大事件の年であった。
好きな連歌も、年末の十二月十六日になってようやく開催できたらしい。発句は義光。

 「入る月の影やとどめし雪の庭」

以下、悲愁感ただよう百韻となる。
 このときの連衆の中に「弥阿」なる時宗僧の名があるが、ほかの連歌にこの名は見えない。いったい何者かという疑問を持ったまま時が過ぎた。

     *
 
 ところが、最近驚くような史料が現れた。一つは名古屋市博物館から、一つは地元山形市光明寺から。
 二つの新史料によって、山形を代表する二大寺院、すなわち時宗光明寺・真言宗宝幢寺の住僧が、このころ京畿周辺で動いていた事実か明らかになったのである。
 まず、宝幢寺尊海。義光の信頼絶大な祈祷僧である。彼は、年が明けたばかりの文禄五年正月三日、尾張国(愛知県)知多の圓蔵寺に伝来する美麗な古写経の末尾に、「羽州山形殿」子孫の末長い繁栄を祈る願文を書き留めていた。(名古屋市博物館紀要第34号、鳥居氏・橋村氏論文)
 次に、光明寺の弥阿。彼は、同じ年の五月下旬に里村紹巴の発句揮毫を手に入れている。紹巴自身「最上光明寺弥阿の御所望により」と、そのいきさつを記した(光明寺蔵軸物)。前年十二月十六日の連歌に参席したのは、この「弥阿」(光明寺第十七世俊山)だったと考えてよかろう。
 それなら、尊海、弥阿の二人がこの時上京していたのは何故か。弥阿の紹巴訪問は、義光同道ではなかったか。
 文禄五年の両者の動きは、最上氏内部の事情によるものであろうし、それは即義光自身の意向と密接な関わりをもつものだったに違いない。
 想像をめぐらすことは可能だが、それはやはり想像にとどまる。さらなる史料の出現が待たれるところだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより19/研究余滴12」より
2020/04/14 16:38 (C) 最上義光歴史館
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
ページTOPへ戻る