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▼地震と最上家

◆◇◆地震と最上家◆◇◆

 二〇一一年三月十一日午後二時四十六分。
M九・〇という巨大地震が東北地方沖の太平洋で発生。直後、未曾有の大津波が東日本沿岸部に襲いかかった。
 山形地方は震度五の強い揺れだったにもかかわらず、大災害とまではいかなかった。住民の一人としてこれは本当にありがたいことだった。
 ここで、地震と最上家にかかわる記録をあげてみよう。
 最上義光が伏見滞在中の慶長元年閏七月十二日(一五九六・九・五)の大地震のときの話が伝わっている。
 前年の八月、豊臣秀次失脚事件にからんで、義光は娘駒姫(おいまの方)を惨殺され、みずからも秀次に加担した疑いで罰され、領国を没収されようとした。そのとき、家康のはからいで事なきを得、義光はこれに深く感謝し、事あらば家康の恩に報いる覚悟でいた。件の地震が発生したのである。次は『徳川実記/巻二十五』からの要旨。

 「大地おびただしく震い、伏見の城ことごとく破れ崩る。」在京中の大小名は秀吉のもとに馳せ付けたが、義光一人は家子郎党らを引き具し、裸馬に鞭打って徳川家の御館に馳せ来たり、かかる時には人の心も計りがたし。私義光がおそばにこうしている限りは御心安くおぼしめさるべく候とて御館を守った」
 
 この話は、山路愛山が『徳川家康』に取りあげ、近年では京都大学の地震史学者も別の意味で着目しておられる。推定M七・五。
 義光没の翌年、慶長二十年六月一日(一六一五・六・二十六)。江戸大地震。M六・五ほど。次は『最上家譜』より。

 「大家破れ倒れることおびただしく、江戸はことのほかの騒動になった。駿府にいた大御所様(家康)のところにだれも注進申し上げなかったが、家親はさっそく飛脚をとばして江戸の様子を報せたので、たいそうお喜びなさった」
 
 親子二代、地震に際しては、家康のところに真っ先に駆け付けたわけである。
 今回の巨大地震は、貞観十一年五月二十六日(八六九・七・十三)の三陸大地震、大津波以来のものだと新聞などで報じられている。『三代実録』にあたってみると、天変地変ここに極まったという書きぶりだ。推定M八・三(理科年表第八十四冊)。
 「陸奥の国、地大いに振動す。流光昼の如く、人民叫呼し、倒れ伏し、起き上がることもできなかった。……家屋は倒壊、人も馬牛も圧死。城館の崩れ落ちること数を知らず。…海の吠え狂い叫ぶ声は雷のよう。海面は高く盛り上がって忽ち国府に押し寄せ、数千百里が浩々と波浪に満たされ、果ても知れぬ。原野も道路も滄溟となり…溺死者千人」。(原文を簡略にした。)
 およそ一一五〇年前のこの事変も、目を覆わんばかりの大惨事であったことがみてとれる。
 このたびの大震災、もはや言語に絶する。亡くなった方々のご冥福と、被災地の一日も早い復興を心からお祈り申しあげる。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより18/研究余滴11」より
2020/04/14 16:23 (C) 最上義光歴史館
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