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▼山形の主「長松丸」

◆◇◆山形の主「長松丸」◆◇◆

 最上義守、義光父子が京都に上って将軍義輝らと宴を共にしたのは、永祿六年(一五六三)六月十四日だった。これは京都の公家山科継の日記によって確認される。
 この時代、山形の文学史料はまさに寥々たるもので、他所の史料によって山形の様子を推察せざるを得ないのが実情だ。いわば隔靴掻痒である。だから、どんなに小さいものでも確かな史料が欲しくなる。そういうとき、『市史せんだい 12号』に収められた「高野山観音院過去帳」を見せてもらって、びっくりした。仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏のお計らいである。この史料は、奥羽の大名一族や家臣、国人らが高野山に参詣し先祖の菩提をとむらった記録簿で、時に「逆修」として在世の親や主君の後生を祈ったものもある。びっくりしたというのは列記されたなかに、

 (a)道清大禅定門 逆修
    出羽国最上郡山形殿 源長松丸
 (b) 雲照寺殿帷翁勝公大禅定門
    山形殿 享祿二年丑 三月六日

とあるのを見たからである。
 これによって、享祿二年(一五二九)の三月六日に「山形殿」を名乗る源長松丸なる少年が高野山に昇り、二人の人物の供養を行ったことが知られるわけである。
 (b)の「雲照寺殿帷翁勝公」は、義光の義祖父にあたる、第九代義定の法号。没年は永正十七年(一五二〇)とされるから、この年は没後十年にあたる。
 (a)の「道清大禅定門」とは正式の法号ではないらしい。この史料で「道○」という名は、道高/道円/道弘などが他にあり逆修に多く見られる。思い付きの域を出ないが、仮に俗名の一字に「道」をつけて仮の法名にしたとすれば、これは中野義清の可能性大となる。
 こう見ていくと「出羽国最上郡山形殿 源長松丸」とは、山形殿の地位にある源氏の末葉、元服前の山形城主……行き着くのが第十代も最上義守となる。
 長松丸(義守)から見て「道清」は実父、「雲照寺殿」は義父となる。彼は高野山に登って、在世の実父と亡き義父と、二人の冥福を祈り最上家興隆を祈願したのであろう。
 同じときに「最上山形殿御内 土佐」、つまり山形殿の家来「土佐」なる人物が「道高禅門/妙高禅尼」のために逆修をしているところから判断すると、この人物は同行した家臣団のトップだったのかもしれない。
 出羽育ちの純朴な青年長松丸の目に、京の景観・風俗や霊地高野山のたたずまいは、どんなふうに見えたであろうか。
 彼が第十一代山形城主、「出羽屋形」として嫡男義光を同道して上京し、将軍に謁したのは、三十四年後のことだった。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより15/研究余滴8」より
2020/04/14 16:01 (C) 最上義光歴史館
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