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▼「土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡」 早川和見  

土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡
                    
【はじめに】
 元和八年(一六二二)最上家のお家騒動後、同家重臣鮭延越前秀綱と新関因幡久正両名は、当時の老中土井利勝に身柄を預けられたが、翌同九年には晴れてご赦免となっている。その際鮭延秀綱には、二代将軍秀忠から次男忠長の附家老への招聘を打診されたというが、当の秀綱はこれを固辞したと伝えられる。この秀綱の固辞理由は不詳のままである(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心として 古河郷土史研究会 第三一号 一九九三年)。その後鮭延、新関両氏は老中土井利勝に預けられた所縁で、元和九年にそのまま家臣として召し抱えている。今回は土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡について若干考察を試みたいと思う。
 元和九年当時土井利勝は佐倉藩主知行高六五二〇〇石で、当時の家臣団分限帳は伝存していない。しかし主要家臣団の顔ぶれや知行高などは、近年ほぼ明らかとなってきている。主要家臣について知行高一〇〇石以上は一三〇名前後、大身者では御城代土井内蔵允元政三〇〇〇石(藩主利勝の同母弟)、筆頭家老寺田與左衛門時岡二〇〇〇石の二氏のみで、他は三〇〇石未満の小身者達であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会 第44号 二〇〇六年)。

【土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡】
 このような現状を背景として土井利勝は鮭延越前と新関因幡の両氏を、何石で召し抱えようとしたのであろうか。これについては、鮭延越前へ三〇〇〇石、新関因幡へは一〇〇〇石であったと思われる。これが当時の利勝の知行高からみても目一杯の知行高であることはほぼ確実である。そして利勝は、この禄高を鮭延、新関両氏に公式に提示前に、将軍秀忠に打診したのである。これについて将軍秀忠は新関因幡への一〇〇〇石はすぐに了承したが、鮭延越前への三〇〇〇石については難色を示し、当初から五〇〇〇石を給するように、さらに召し抱えるに伴い五〇〇〇石加増を利勝へ指示している。恐らく秀忠は利勝に対し、現知行高では五〇〇〇石の捻出が困難であることを考慮しつつ、将軍家としても近い将来に一四、五万の大身の大名へ取り立てる意向を内密に伝えていたものとみられる。鮭延越前への五〇〇〇石は、事実上将軍秀忠が給したものである。これにより鮭延氏は、俄かに利勝家中における禄高最高位となったのであった (寛政重修諸家譜 土井家部分 土井系図乾 国立公文書館内閣文庫) 。つまり二代将軍秀忠、幕閣の土井利勝等が、最上家浪人鮭延越前と新関因幡の両氏について極めて高い評価をしていたことが古河藩土井家史料により明らかなものとなっている。
 実はこれと同様に、戦国武将鮭延越前が当時の将軍家や幕閣が高く評価して描いた軍記物に『奥羽永慶軍記』がある。このことで筆者は、出羽の軍記物に造詣の深い鶴岡市の歴史家佐久間昇氏に直接尋ねたところ『作者の戸部正直は、在野の歴史家であるものの水戸徳川家二代藩主光圀とも親交があり、大日本史編纂中であった同藩彰考館にも出入りを許されており、鮭延越前と将軍家との情報も水戸徳川家から入手した可能性が高い』とのことであった(佐久間昇 出羽戦国期に関する軍記物(語)の系譜の研究2‐『奥羽永慶軍記』を中心としてー山形県民俗・歴史論集2)。
 さて次に土井利勝が元和九年に鮭延越前に五〇〇〇石、新関因幡へ一〇〇〇石の高禄にて召し抱える際、どのような条件を申し渡したのか、この辺の経緯についても徐々に明確となりつつある。利勝は『このような高禄で遇するのはあくまでも当人のみで、その期間も藩主利勝代に限る』という条件で、世臣とする考えはないというものであった。
 この利勝の条件をあっさり受け入れたのは新関因幡であったようである。彼は最上時代鶴ヶ岡城代(現山形県鶴岡市)にあって最上家の蔵入地八万石を預かっており、また自身も藤島において知行六五〇〇石を領し、有能な農務官僚として知られ、特に灌漑事業に功績があり『因幡堰』の名を遺している。新関氏は主家最上氏に代々仕えた世臣の家柄で、久正自身の才覚に加えて一途な奉公実績が認められ要職までに登用されたものと見られる。この新関氏とある面で対照的なのが鮭延氏である。鮭延氏は利勝から当人のみとの申し出に対しては『わが鮭延家は当代までと致す所存』と返答したが、加えて某の生ある間は利勝様御代のみでなく次の御代においても扶持して欲しい。さらに現在随従している家来達(出羽時代からの旧臣)については某(秀綱自身)の亡き後、みな土井家で直参に召し抱え世臣として遇してほしい。この秀綱からの申し出について土井利勝は基本的に了承している。利勝は柔軟な一面も持っていたことが今日理解されつつある。
 
【新関因幡古河城下に没す】
 なお久正は寛永一六年〜同一九年の間に古河城下で没したことは分かっているが、没年不明で組頭役二三〇〇石であった。その後は嫡男彦六が家督したが家禄は三〇〇石に留まり、藩主利勝.が正保元年死去すると、二代藩主利隆には仕えずに土井家を退藩している。これは久正が利勝に仕官する際には、利勝が藩主時代のみという事前に約束があったものと見られている。

【鮭延越前古河城下大堤に没す】
 一方鮭延秀綱は当時既に高齢であったことも関係していると思われるが、身分は客人のまま知行五〇〇〇石も没するまで、そのまま据え置かれた状況で一切変更はなかった。これは土井家内での鮭延秀綱の処遇については、先に藩主利勝の意向のみならず二代将軍秀忠の意向も深く関係するところであり、このため後年なかなか変更が困難であったろうと想像している。鮭延秀綱は正保三年(一六四六)六月二一日古河城下大堤にて没す、行年八五歳。秀綱が死去してもなお、その家来一三名が現存しており、彼らは同年七月一五日土井家へ直参に召し出されている。彼らの待遇は知行高一五〇〜三〇〇石の古河藩の中級藩士であった。また家来達は秀綱没後、屋敷址に菩提寺『鮭延寺』を創建し現存している。

【最近の土井利勝時代家臣団分限帳と城絵図の調査について】
 土井利勝時代の各家臣団分限帳と佐倉・古河各城絵図について筆者が調査した結果、佐倉城絵図(古河歴史博物館蔵 七万石 時代は元和九年頃)には、当時の佐倉藩士名が記されており分限帳と比肩できる正確さを備えている。これには鮭延越前と新関因幡両氏の屋敷と、その家来達(土井家の陪臣)の屋敷が確認できる。また庭月理右衛門屋敷もあり、彼は本来鮭延越前の家来であるものの、最上家出仕時代鮭延家中に唯一最上家旗本格であったことから、利勝側もその家格を尊重して直参として召し抱えている。さらに新関因幡の嫡男新関彦六の屋敷も見えている。
 これが時を経て古河城絵図(現茨城県立歴史館蔵 一六万石時代 利勝が正保元年七月没時点のもの これと同時期の正保分限帳も伝存する)になると、先述した佐倉城絵図とは様相が異なっている。古河城絵図には当時の鮭延越前屋敷は古河城下大堤にあり、同絵図にはこの地域は記されていない。また新関因幡、同彦六各屋敷も既に存していない。しかし特質すべきことは古河城絵図には鮭延氏の家来達が陪臣ではなく、古河藩より直参の家臣団の中に中級藩士として個別に屋敷を与えられて、既に直参に編入されている状況が確認されている。
 このことについて『土井系譜・乾』(国立公文書館内閣文庫蔵)や古河藩系譜略(古河市旧渡辺家文書)によれば、鮭延越前の家来達は土井家に直参に召し出された時期は、あくまでも越前死去後の正保三年七月一五日と記している。しかしながら近年の古河城絵図、正保分限帳(利勝が没した正保元年当時のもの)によれば、実質的には、鮭延越前の最晩年頃には土井家に直参に列したことが史実として確認されている。

■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員)「歴史館だより26」より
2020/01/04 14:04 (C) 最上義光歴史館
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