▼館長の写真日記 令和7年9月7日付け2025/09/07 17:15 (C) 最上義光歴史館
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「パンがなければケーキを食べればいい」という有名な言葉がありますが、「米がなければラーメンを食べればいい」と山形では言われている、わけはなく、むしろ地元大学では最近、ラーメンを週3回以上食べると死亡率は約1・52倍になるという調査結果を発表しました。
さて、某大河ドラマでは今、米騒動の話となっていますが、これがまた今の時代に不気味にシンクロしていて、政権混迷というあたりも似ていて、「令和の百姓一揆」という動きもあり、あとに続くのは打ち壊しということでしょか。ドラマの脚本は半年以上前にできあがっているはずで、けっして今の状況を織り込めるはずはないのに、そんな指摘がネット上にありました。
ところで時代劇などを見て思うのは、そこで食べている米のことでして、「べらぼう」では長屋住まいでも白米を食べていて、しかしながら当時、地方では米すら口にできないという話もあります。これを調べてみると「江戸時代、白米を普通に食べていたのは江戸や大阪などの大都市の人だけです。日本全土にわたって白米が常食されるようになったのは戦後ですよ。」とネット上にありました。「戦後」というのはどうかとも思いますが、確かに戦前を時代背景とする小説などでは「銀シャリが食えるのはありがたい」などという話がよくでていますし、あの「おしん」では大根飯でした。他にネット上
には、農村部で白米を食べるのが当たり前になったのは明治になってから、ともありました。
さて、八代将軍の徳川吉宗(1684〜1751)は「米将軍」とも呼ばれ、享保の改革(1716〜1746)により米の生産を拡大し、武士階級だけでなく時には農民も白米が口にできるようになりました。しかしながら、収穫米の相当部分は年貢として徴収され、農家に残るのは自家消費と種籾・翌年用の備え程度。そのため農村の日常の主食は粟・稗・麦などの雑穀が中心で、白米はハレの日のご馳走という位置づけでした。しかも1732年(享保17年)には冷夏と虫害による「享保の大飢饉」が、1782〜1788年(天明2〜8年)には悪天候と浅間山噴火による「天明の大飢饉」が起きています。
大名の領地は「何万石」で表されますが、武士の給与も米で支給されました。目安として1石は成人男性の1年分の米(約150kg)で、家で消費する以上の分は売却して現金化し、生活物資の購入などに充てました。一方、各藩の年貢米は江戸・大坂・京の蔵屋敷へ集められ、市場に放出されました。それを精米したものが小売りされ、都市部の町人や職人が買い求めました。その食べ方は、とにかく多量の飯(1日5合とも)を食べて、おかずは漬物程度。豊かさを競うように白米ばかりを食べたので、米糠に含まれるビタミンB1が摂取できなくなり「脚気」になる人が増え、これは「江戸患い」とも呼ばれました。江戸に出てきた藩主がこれにかかり、地元に戻り食事も元通りになると治ったこともあったそうです。
また江戸時代では、精米技術も向上しました。従来の杵を手にしての米搗きだけでなく、足踏み式の「唐臼」が中国から伝わりました。木臼が石臼になり作業効率が飛躍的に伸びたそうです。また、玄米のままでは火の通りが悪いため白米が求められました。
一方、地方では、玄米に近い分付き米に雑穀などを混ぜて食べていたそうです。
実質100万石とも言われた仙台藩の事例ですが、「農民は年貢以外の貢租を納めるため米を換金せざるをえず、村には食料にするための米がわずかしか残らなかった。江戸の庶民が普段、仙台米を食べているときに、仙台藩の農民の主食は、麦・粟・稗・大根・大根の葉などをいれた「カテ飯」であった。白米だけのご飯は「いっそ飯」または「えっそ飯」と呼ばれ、正月などめでたいときに食べるごちそうであった。おかずは漬物と梅干、それにみそ汁が基本であり、みそ汁には具の野菜をたくさん入れておかずにした。」との記録があるそうです。
1796年(寛政8年)に出された「昇平夜話」という武士の教訓書には「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し」とあり、東照宮上意とは徳川家康が言ったことには、という意味ですが、家康云々は別として、この時代の統治のあり方、年貢の取り方がうかがい知れるものではあります。
ということで、「べらぼう」で江戸に住む長屋の庶民が白米を食べるのは、時代考証的に合っているのですが、地方回りをしている水戸黄門では、武家以外で白米がでてきたらこれはどうかとなります。ちなみにある放送回で、黄門様御一行が貧しい村人の家に宿を求め、そこでの食事は囲炉裏にかけられた鍋にある雑炊のようなものだけだったのですが、これを食べた助さんだったか格さんだったかが思わず「ウッ、ウッ、これは」とその不味さに顔をしかめるシーンがあり、やはり間違いのない演出ではありました。
(→ 裏館長日誌に続く)