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山形の言葉(ことば)をたくさん集めています
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該当:47語
あ
- 安倍貞任(あべのさだとう)平安中期、前九年の役で源頼義・義家と戦った奥州安倍氏の将。長井に伝わる卯の花姫伝説では、敗れた安倍氏の姫の父として語られ、置賜の伝承世界に名を残す。(出典:Wi
- 甘糟景継(あまかすかげつぐ)上杉景勝の重臣。文武に優れ「上杉家中の逸材」と評された。庄内支配の要として東禅寺城(酒田)城代を務め、城の名を亀ヶ崎城と改めたと伝わる。(出典:Wikipedi
- 色部久長(いろべひさなが)幕末の米沢藩家老。戊辰戦争で新潟総督として戦い新潟で戦死。敗戦後、藩の戦争責任を一身に負う形となった。米沢藩の戊辰を象徴する人物。(出典:Wikipedia)
- 上杉定勝(うえすぎさだかつ)米沢藩2代藩主。景勝の子。藩政の基礎固めに努め、父の遺した重臣たちとともに30万石の米沢藩を軌道に乗せた。(出典:Wikipedia)
- 上杉重定(うえすぎしげさだ)米沢藩8代藩主。財政破綻に苦しみ領地返上まで考えたが、日向高鍋藩から迎えた養子・治憲(鷹山)に藩政を託した。鷹山の改革を後ろから支えた養父。(出典:Wikipe
- 上杉綱勝(うえすぎつなかつ)米沢藩3代藩主。嗣子のないまま急死し、吉良上野介に嫁いだ妹の子・綱憲を末期養子に迎えることで家名存続と引き換えに藩は15万石へ半減——米沢藩財政難の遠因となった
- 上杉綱憲(うえすぎつなのり)米沢藩4代藩主。実父は忠臣蔵で知られる吉良上野介義央。赤穂事件の際は実父への援兵を幕府への配慮から思いとどまったと伝わる。学問を好み藩校の源流を育てた。(出典:
- 上杉斉憲(うえすぎなりのり)米沢藩12代藩主。幕末に奥羽越列藩同盟の中心として戊辰戦争を戦い、降伏後に隠居。激動の時代の上杉家当主として藩と領民を守る決断を重ねた。(出典:Wikipedi
- 氏家守棟(うじいえもりたね)最上義光の宿老・軍師。謀略と調略に長け、天童氏攻略や庄内進出など義光の最上統一を参謀として支えた最上家の屋台骨。(出典:Wikipedia)
- 江口光清(えぐちあききよ)最上家臣で畑谷城主。慶長出羽合戦で直江兼続率いる上杉の大軍を前に降伏勧告を拒み、一族郎党とともに玉砕。その奮戦が長谷堂の防衛線を支えたと伝えられる。(出典:Wi
- 大江広元(おおえのひろもと)鎌倉幕府の政所初代別当。源頼朝の側近として幕政を支え、寒河江荘の地頭職を得た。その子孫が寒河江氏・長井氏として置賜・村山に根を張り、山形の中世史の源流となった。
- 小野良実(おのよしざね)平安期の官人で、小野小町の父と伝わる人物。出羽郡司として下向したという伝承があり、小野川温泉の小町開湯伝説にも連なる。実在の詳細は謎に包まれる。(出典:Wiki
か
さ
- 酒井玄蕃(さかいげんば)庄内藩家老・酒井了恒(のりつね)。戊辰戦争で庄内藩二番大隊を率いて連戦連勝し、「鬼玄蕃」と恐れられた。一方で占領地での軍律は厳正で、敵地の民にも慕われた名将。漢
- 酒井忠徳(さかいただあり)庄内藩9代藩主。財政再建のため豪商・本間光丘を登用し、藩校致道館を創設した。学問と実利を両立させた庄内藩中興の藩主。(出典:Wikipedia)
- 酒井忠勝(さかいただかつ)庄内藩初代藩主。1622年、最上家改易後の庄内に14万石(のち17万石)で入封し、鶴ヶ岡城を本拠に城下町鶴岡を整備した。以後、酒井家は明治まで約250年庄内を治
- 酒井忠次(さかいただつぐ)徳川四天王の筆頭。庄内藩酒井家の祖であり、その武勇と忠節は「海道一の弓取りの右腕」と称された。孫の忠勝が庄内に入封し、酒井家250年の治世が始まる。(出典:Wi
- 寒河江氏(さがえし)大江広元の子孫が寒河江荘に土着した武家。慈恩寺の庇護者として栄え、約400年にわたり寒河江を治めたが、1584年に最上義光に敗れて滅亡した。(出典:Wikipe
- 鮭延秀綱(さけのべひでつな)真室川・鮭延城主。最上家きっての猛将で、長谷堂合戦では寡兵で上杉軍に夜襲をかけ、敵将直江兼続にその武勇を賞されたと伝わる。最上家改易後は古河で禄を家臣に分け与え
- 里見景佐(さとみかげすけ)東根城主。最上義光に仕えた重臣で、東根の基礎を築いた。大ケヤキで知られる東根城跡に名を残す。(出典:Wikipedia)
- 志駄義秀(しだよしひで)上杉家臣。慶長出羽合戦では東禅寺城(亀ヶ崎城)代として庄内を守り、関ヶ原後の上杉撤退戦をまとめた。のち米沢藩で奉行を務めた。(出典:Wikipedia)
- 清水義親(しみずよしちか)最上義光の三男で、最上川舟運の要・清水城(大蔵村)主。大坂の陣を前に豊臣方との内通を疑われ、兄家親に攻められて自害した悲劇の武将。(出典:Wikipedia)
- 志村光安(しむらあきやす)最上義光の重臣で長谷堂城主。慶長出羽合戦(1600年)では直江兼続率いる上杉軍の猛攻から長谷堂城を守り抜き、「北の関ヶ原」の英雄となった。戦後は酒田・東禅寺城主
- 下吉忠(しもよしただ)もと上杉家臣で、慶長出羽合戦では直江軍の先鋒として谷地城に入ったが、関ヶ原の報を受けた撤退戦の中で最上方に降り、のち最上家臣として谷地城を預かった。(出典:Wi
- 白岩氏(しらいわし)寒河江大江氏の庶流で白岩城(寒河江市白岩)を本拠とした武家。最上領期の白岩では苛政に抗した「白岩一揆」が起き、江戸初期の農民蜂起として歴史に刻まれる。(出典:W
- 白鳥十郎長久(しらとりじゅうろうながひさ)谷地城主。最上川舟運と紅花で栄えた谷地を治め、織田信長に馬を献上するなど外交手腕でも知られた。最上義光に山形城で謀殺されたと伝わり、その悲劇は今も語り継がれる。
- 新徴組(しんちょうぐみ)幕末に庄内藩預かりとなった浪士隊。新選組と同根(清河八郎の浪士組)から生まれ、江戸市中警備ののち戊辰戦争では庄内藩とともに戦った。維新後は庄内へ移住し松ヶ岡開墾
- 水原親憲(すいばらちかのり)上杉家の歴戦の勇将。慶長出羽合戦では鉄砲隊を率いて長谷堂からの撤退戦を支え、大坂冬の陣でも鉄砲術で武名を上げた。「戦場こそ我が家」と言わんばかりの生涯だった。(
- 菅実秀(すげさねひで)庄内藩中老。戊辰戦争後の難局で藩論をまとめ、旧藩士3000人による松ヶ岡開墾を主導した。西郷隆盛と深く信頼を結び、庄内に伝わる「徳の交わり」の中心人物。『南洲翁
- 仙桃院(せんとういん)上杉謙信の姉で、上杉景勝の母。長尾政景に嫁ぎ、わが子景勝を謙信の後継に送り出した。上杉家の米沢移封に従い、米沢の地で晩年を過ごした戦国の母。(出典:Wikipe
た
- 大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)庄内の戦国大名・武藤(大宝寺)氏の当主。強引な領国拡大で「悪屋形」と呼ばれ、家臣前森蔵人(東禅寺義長)の反乱により自害。庄内争乱の幕開けとなった。(出典:Wik
- 大宝寺義興(だいほうじよしおき)大宝寺義氏の弟(養子とも)で武藤氏当主。本庄繁長の子を養子(義勝)に迎えて上杉との連携を強めたが、最上方に通じた東禅寺義長らに攻められ自害した。(出典:Wiki
- 大宝寺義勝(だいほうじよしかつ)本庄繁長の実子で大宝寺氏最後の当主。十五里ヶ原の戦い後に庄内を回復し、豊臣政権下で大名として認められたが、藤島一揆の責めを受けて除封された。(出典:Wikipe
- 竹俣当綱(たけのまたまさつな)米沢藩士。鷹山改革の初期を主導した家老で、漆・桑・楮の「三万本植立」など殖産興業を推進した。のち失脚するが、その構想は米沢織などに実を結んだ。(出典:Wikip
- 楯岡満茂(たておかみつしげ)楯岡城主で最上義光の重臣。由利地方(秋田県由利本荘)の攻略を任され、本荘城を築いて4万5千石を領した最上家の北の押さえ。(出典:Wikipedia)
- 伊達成実(だてしげざね)伊達政宗の従弟で「伊達の武の象徴」。毛虫の前立の兜で知られ、人取橋・摺上原など政宗の主要合戦で先陣を務めた。米沢・置賜時代の伊達家を支えた猛将。(出典:Wiki
- 伊達稙宗(だてたねむね)伊達家14代当主。居城を高畠・西山城に置き、分国法「塵芥集」を定めた戦国大名。子の晴宗と争った天文の乱は南奥羽全体を巻き込む大乱となった。(出典:Wikiped
- 伊達晴宗(だてはるむね)伊達家15代当主。天文の乱で父稙宗を破り、本拠を西山から米沢城に移した。以後、孫の政宗が仙台へ移るまで、米沢は伊達氏三代の本拠地となった。(出典:Wikiped
- 千坂景親(ちさかかげちか)上杉家譜代の重臣。景勝・兼続のもとで外交を担い、米沢藩成立後は初代の江戸家老として徳川との折衝を支えた。(出典:Wikipedia)
- 天童藩織田家(てんどうはんおだけ)織田信長の次男・信雄の系統が幕末に天童へ移った2万石の小藩。財政難の内職として藩士に将棋駒づくりを奨励したことが、今日の「将棋駒のまち天童」の起源となった。信長
- 天童頼澄(てんどうよりずみ)天童城主・天童氏最後の当主。最上八楯の盟主として最上義光に最後まで抵抗したが、天童城落城により陸奥へ逃れた。(出典:Wikipedia)
- 東禅寺義長(とうぜんじよしなが)もと大宝寺家臣・前森蔵人。主君義氏を討って最上義光と結び、東禅寺城(酒田)を拠点に庄内の実権を握ったが、十五里ヶ原の戦いで本庄繁長に敗れ、弟勝正は繁長への斬り込
- 戸沢政盛(とざわまさもり)新庄藩初代藩主。角館から常陸を経て1622年、最上家改易後の新庄に6万石で入封し、新庄城と城下町を築いた。以後戸沢氏11代247年の新庄藩政が始まる。(出典:W
- 鳥居忠政(とりいただまさ)最上家改易後の1622年、山形藩22万石に入封した譜代大名。関ヶ原前夜の伏見城で玉砕した忠臣・鳥居元忠の子。山形城の改修と城下の再編を行い、近世山形の町割りの基