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▼朝日町八ツ沼春日神社と大船木、白鷹町栃窪の獅子頭の記録

朝日町八ツ沼春日神社と大船木、白鷹町栃窪の獅子頭の記録/
  朝日町の図書館に資料を探しに訪れた。

「朝日町史」に町内三中(みなか)地区八ツ沼の春日神社に興味深い資料があった。

春日神社では四年に一回、旧の閏年(うるうどし)の例祭に大名行列を行い、その大名行列に獅子踊や

大獅子も加わるのだ。別の年代不詳の資料には総勢228人の行列には未知の役割が数多く面白い。

例えば長井市の伊佐沢念仏踊りや飯豊町椿念仏踊り、長井市や飯豊町の獅子踊、白鷹町の田植え踊、各地の

獅子舞などを合わせて構成した様な盛大さだろう。朝日町大谷の「風祭り」はさらに花火大会や演劇が加わ

って盛大に催している。八ツ沼春日神社では毎年は大変なので四年に一回の楽しみとしているのだろう。

丁度、今年がその例祭の年になり8月15日に開催が予定されている。

神社拝殿には大正14年奉納された、

「春日神社祭典行列之図絵馬」が所蔵されている。由緒書きによると寛政十一年(1799年)神社氏子の

一人が当時の左沢と寒河江の境界地争いを解決した功績によって松山藩主より大名行列の格式で実施するこ

とを許されたのだという。それを郷土史家四人が調査研究に基づき大正14年(1925年)に奉納した。



(朝日町史 第10章 近世の文化と宗教 第1節 農民の信仰とくらし 1 庶民の信仰より)

不鮮明で小さな写真なので、分かりにくいが中央に大獅子が確認できる。大規模な行列である。

早速、八ツ沼春日神社の神主さんと連絡が付き、4月頃に絵馬と獅子頭を拝見するお願いをした。






また、別の資料に朝日町大船木地区の熊野神社に所蔵されている獅子頭の情報を発掘した。

広報あさひまちに掲載された「路傍の神々仏たち45 大船木 熊野神社 」である。

宮宿の帰り道なので言ってみよう。

上郷、杉山から大瀬の手前の船木大橋から最上川を渡り、右折し間も無くすると大船木集落が見えてき 

た。ここから最上川対岸を見上げる様に杉山集落が眺められる。二月の最上川は濁り、積雪もあって目

から寒気を感じるようだ。

集落は山際にあり、以前来た時より空き家が目立っている。細い道路から小道には入らず奥に進むと、

山の斜面に赤い鳥居と屋根がチラリと見えた。熊野神社の筈だが、稲荷神社かな? と疑問を感じたが

ナビには熊野神社と記されてあった。

崖を切り開いた道で右手は直ぐは、最上川。Uターンする気分にもなれず直進すると松程地区に入り、暖

日(ぬくひ)橋を渡ると上郷である。こちらの厳島神社にも未調査の獅子頭があり、厳島神社の位置が気

になるのだ。高い杉の木が見えるあの場所だろう。

この資料によると大船木の熊野神社には獅子頭に記名が残されていた。

「弘化二年(1845年)二月吉日 山形市法花町(旧町名 法華町)彫師 和田止五郎(とめごろう) 

 別当 堀江重三郎 セハ人(世話人)堀江千代八 同 佐藤民蔵 寄附 想村中 同 若衆中 」

記名の山形の彫師は初めて出てきた方で、まず聞き慣れない山形市の旧町名である法花町について調べ

てみると、現在は八日町で和田姓は三軒あった。お世話になっている八日町の仏壇屋さんに尋ねてみるが

当然不明だった。八日町の浄光寺は改名する前は妙法山法華寺で弘化二年当時は旧町名の法華町。獅

子頭は178前に制作された事になる。祭りは休止されているので獅子頭の状況が心配である。

山形の餌鷹神楽の創始者「和田幸太夫」は文禄三年(1594年)最上義光公より獅子頭を拝領されている。

法華町の近く鉄砲町に六椹(むつくぬぎ)八幡神社に一対の獅子頭があり、彫師止五郎との関係も判明

できるかも知れない。


大船木熊野神社の獅子頭は対岸の杉山の獅子や大瀬の獅子と比較してどうなのか拝見できることを楽し

みにしている。     





 帰り足、白鷹町の図書館に寄り「栃窪の歴史 土屋籐一著」を改めて調べることにした。

栃窪地区は昭和44年に鮎貝柏原団地に集団移転した地区で、明治期に栃窪に神楽があったという話を目に

していた。現在そのコピーが行方不明なのだ。

栃窪は地図で見ると最上川西岸、大船木とは隣接しているが、昨年の大雨で崖が崩れ遮断されたままであ

る。栃窪に山神社と観音堂があったが、住民と同時中禅寺平に遷宮された。

その神楽は明治30年頃、栃窪神楽の師匠は菊太夫、息子の与吉(よき)太夫が後継者だった。獅子舞を主

とした十人程のメンバーで、笛、太鼓、三味線などで神楽を行ったという。菊太夫が他所で神楽を修行

したのではなく、栃窪に「木流し」(丸太を川に仮設ダムを作り、貯水した水を一気に流し下流まで運ぶ

作業)に来ていた神楽経験者から習ったのだという。息子に継承し人気を博したがたが、その後廃絶し

た。「栃窪史」の続編があり神楽の演目について詳しく残されていた。

「悪魔払いの獅子舞、おかめ舞、ざとう舞、万歳、和唐内踊、鳥刺舞、阿呆舞があった。舞の他、皿回し

バチトリ、などがあり賑やかな面白いものであった。その神楽は明治の末、実淵川で木流しをやっていた

頃、木流し人足として働きに来ていた人から習ったと言われている。次に神楽唄を一つ書き留めておこ

う。  


    〽︎神楽と書いた二文字は  神楽(かみたのし)しむと読みたまい  
               
               神も喜ぶよ ホイ   アー御神楽よ ホイ 〽︎

                               (黒鴨 佐藤虎五郎唄より)
 
 一説には黒鴨にも神楽があった記録があるので、神楽唄は黒鴨の方から聞いたのでは無いだろうか。

演目は㊀餌鷹神楽などの本格的な芸ばかりで、木流しの方から習ったにしては本格的すぎる。獅子頭や神

楽面などの専門の小道具の調達もあっただろう。

娯楽の無かった時代、栃窪には様々な芸能が訪れては消えていった。住民が習い教えあい稽古して会得し

厳しい環境と労働の中で楽しみに変えていったのだろう。また旅芸人が訪れ異なる文化を伝えたと思われ

る。


栃窪に存在した芸能も数多く、記録されていた。

1.七福神踊、2.やっこ(明治期から昭和)大名行列 人数は12人 鮎貝八幡の例祭に参加 

3.音楽隊(軍楽隊)明治から太平洋戦争まで

4.人形芝居(他からの芸能人)明治から大正  5.田植え踊 大正初頃迄 6.祭文語り 明治大正迄

7.瞽女(ごぜ)越後から3〜5名の一行  8.芝居 9.幻燈会 10.虚無僧

11.獅子踊 越後方面から少年が獅子踊りと言って鶏の長い尾羽を帽子につけて軽技芸 明治期で途絶える   

12.猿廻し     以上


 一つの集落が培ってきた文化は、なんと豊で多種多様だったか驚かされる。

 栃窪の住民は昭和44年に集団移転して54年経過したが、現在栃窪神楽の獅子頭の所蔵はどうなったの

だろうか。最近のブログに白鷹町鮎貝の旧家、屋号「あぶらや」さん黒沢家で拝見した二つの獅子頭の一

つに会津系の獅子頭があった。栃窪神楽で使われた獅子頭の可能性もありえる。



黒沢家の神楽獅子

物言わぬ獅子頭を探れば探るほど疑問が増えドキドキしてくる。

探さなければならないと勝手に使命感を膨らませる癖が身についてしまった。


(八ツ沼春日神社所蔵の獅子頭の写真は朝日町観光協会制作のパンフレットから引用させて戴きまし

た。)

2023/02/23 08:48 (C) 獅子宿燻亭10
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