▼もう一つの知の在り方2007/02/19 14:11 (C) 製造業で働く
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日本人は龍の姿、特に龍に乗って空を飛ぶ姿に、特別な思いを抱いてきた。「龍の背に乗る」というイメージが意味するものを仏教の教えに基づき教えていただいた。
主題の「もう一つの知」とは、対象を細かい要素に分解したり、原因-結果の因果律で理解しようとする「分析知」に対峙する概念である。ものごとの全体性をそのままに受け止め、身体や感覚で吸収する「身体知」のようなものである。例えば、自転車の乗り方をマニュアルに則って教えることはしない。とにかく乗ってみて、身体の重心をどこにおけばいいのかを感覚的につかみ取って行く。「もう一つの知」は、それに近いものである。
論理や科学に代表される「分析知」は、人間の大脳皮質が司る機能である。人間は新しい体験や情報に出会うと、脳に格納されている既存知識の枠組みを使って新しい情報を分析・理解しようとする。現代社会は「分析知」に偏りすぎていること、ことに全ての事象を因果律で片付けようとする「因果律に毒された状態」であることに強い危機感を抱いている。
「問題には必ず答えがあり、それはひとつに集約される」
「問題には必ずその原因となる根源要因が存在する」
と言う発想は、ともすれば犯人捜しやスケープゴートに繋がる危険性があり、いじめ問題の底流にも関連すると考える。
仏教の教えでは、「すべてのものに実体がない、自性=私がない」と説いている。色も、温度も、時間も、実体があるわけではなく、大脳皮質が既存知識に基づいて実体があるかのように理解しているだけ。関係性の中で生まれ、関係性がなくなれば消えていく、常に変わり続ける無常のものである。
「命」とは、全体性を動かす力を意味するものである。古代の日本人は、「いのち」が全体性そのもので、「もう一つの知」でなければ受け止めることが出来ないと考えてきた。
宿命とは、命を変えられないものとして認識する意味。
運命とは、自分が関わることで命は変わるとする意味。
立命とは、命に乗っかろうという意味。
「いのち」を実体のある客観的な対象物としてみるのでなく、どのように受け止めるか、その受け止め方こそが仏教の大きなテーマである。
東洋では、龍を「よく分からないもの、先の見えないものを象徴する乗り物」として認識してきた。観音様が「龍を乗りこなす」という行為に、「いのち」に代表される不可思議で、制御できない大きな全体性と上手く付き合うイメージが重ね合わされている。龍を、神や仏の化身とみて、不可思議なものと上手く付き合うパートナーと考える。
龍を乗りこなす観音様が唱えるのが「般若心経」である。般若とはサンスクリット語が語源で、「もう一つの知」を表す言葉である。悩みや問題に直面した時に、感覚からの知覚=分析知につなげずに、そのままの状態を積極的に続けようとするのが仏教の「行」にあたり、「般若心経」を唱えることは「行」に他ならない。「般若心経」を唱えることで、意識=私を消し去り、全体性をそのままで受け止める「瞑想知」の状態になることが「般若心経」の本質である。
「分析知」の限界は、さまざまな世界で言及されている。自然科学の分野では「脱・要素還元主義」という言葉が言われている。「複雑系」という概念は、「もう一つの知」にあてはまる。経営やビジネスの世界でも、経営理念、ブランド、キャリアなど、要素還元型でなく全体性でなければ対応できない問題が数多くある。論理的に分析することを否定するものではないが、論理や理屈を考えても答えの出ない問題があることも事実である。
「キャリア」や「熟練の技」などを考える場合には、私たちは「もう一つの知」や身体知で受け止めて考える必要があるのだろう。