▼館長裏日誌 令和6年11月10日付け2021/11/10 09:00 (C) 最上義光歴史館
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朝鮮出兵の理由について諸説あるのは、つまりはそれを裏付ける決定的な文書がないためです。文書には主に「日誌」、「書簡」、「公文書」、「史誌・伝記」、他に「証文」や「帳簿」など、あとは「物語」や「詩歌」などがありますが、歴史研究においてまず注目されるのは日誌や書簡です。日付や作者が明確であり、書けないことは当然あるにせよ、フィクションばかりということは稀でしょう。また、日誌や書簡は人間関係も読み取ることができます。一方、史誌は公式で作成されることもありますが、戦記物となると誇張や省略、筆者の主観や伝聞も入るため、歴史研究上は二次資料扱いとなることが多く、他の資料との読み合わせが必要です。
さて、朝鮮出兵にあたっては、その出兵拠点として現在の佐賀県唐津市・玄海町に「名護屋城」という城を築きました。大坂城に次ぐという規模で、周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、そこには全国から20万人以上が集ったそうです。諸国大名の兵の割当は、四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定められました。また、常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名は、10万石に付き大船2艘を準備するように命じられました。人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員を含むと、名護屋での滞在が10万人、朝鮮への出征が16万〜20万人となったそうです。
主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、東日本の大名は肥前名護屋に駐屯。最上義光は名護屋城の在陣衆として500人、他に徳川家15,000人、上杉景勝5,000人が駐屯。伊達政宗は1,500人のところを自主的に3,000人とし朝鮮に出陣しました。九州へむかう途中、京都を出発した伊達軍のいでたちは、見物していた町の人々を驚かす派手で奇抜なものでした。足軽までもが黒塗りに金で星を描いた具足をつけ、刀の鞘は銀や朱、頭には金のとがり笠。馬上の侍たちはさらに豪華な鎧を身につけ、馬にも豹や虎の毛皮で作った馬鎧を着せていたそうです。この頃には「伊達者」と言われるようになっていたといいます。
戦地や領地外に在留すれば、当然、領地との書簡のやり取りがなされます。朝鮮出兵時の書簡については、義光も政宗も残されているものがあり、それはまた博物館における主要展示品のひとつともなっています。朝鮮出兵に際し、義光は楽観的であり(書状には「御心易かる可く候」とあります)、政宗は意気軒高ですらあったのですが、戦況が厳しくなるにつれ、義光は嫌気がさし、政宗は疲労が伺えるものとなってきます。
まず、義光の手紙から。文禄二(1593)年五月十八日、最上義光が家臣伊良子信濃に宛てた書状があり、その写しが仙台市立博物館(伊達家文書)にあるのですが、その複製を当館で展示しています。その主な内容はつぎのようなものです。
蒲生氏郷に対し義光が、朝鮮出兵について尋ねたところ、「我等が渡海することはないだろう。朝鮮では豊臣軍がーヵ所に集まっていて、飯米もない。」との返事であった。文禄の役はすでに泥沼化しており、劣勢は濃厚。このような状況のもと義光は、「いのちのうちニ、いま一ともかミのつちをふミ申度候、ミつを一はいのミたく候(命あるうちに今一度、最上の土を踏みたい。水を一杯飲みたい)」とまで記したが、義光は朝鮮へ渡海せずにすんだ。しかし、家康が朝鮮への渡海を命ぜられたと聞き、義光は家康に使者を送った。すると家康から「ふしきニ出羽も我等も此度の命をミつけ候。やかてやかて国へくだり、たかをつかい候ハん事、ゆめかうつつかとよろこひ候(不思議に義光も家康も命が助かった。やがて国へ下り、鷹狩りができることは、夢かうつつか)」と返事がきて、義光も「あわれあわれ、さやうに候へかし」と記したものです。
この手紙からわかるように、「朝鮮出兵」は実は地方大名のグループ化のきっかけともなったようです。ところが次第に、加藤清正ら前線で戦ったグループ(武断派)と、石田三成ら後方で軍政を支えていたグループ(文治派)との軋轢が鮮明となり、豊臣家はその分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。
○ 伊達政宗の手紙の話
続いて、伊達政宗の手紙のお話を。政宗は筆まめで知られ、1000通以上もの自筆の手紙が現存しています。仙台市博物館の元館長であった佐藤憲一氏が著した「伊達政宗の手紙」という本があり、1995年に新潮選書として刊行され大変話題になり、今もその復刊が望まれています。政宗の手紙に関わるエピソードのネタ本的存在となっています。
まず、朝鮮出兵は、ぎくしゃくしていた義光と政宗との溝をなくすものでもあったことがわかる手紙があります。天正二十(1592)年六月頃に、政宗が義姫の侍女小少将に宛てた書状で、実質的には義姫に宛てた手紙です。政宗は伯父である義光を「御あにさま」と呼び、「御あにさまにはさいさいあい申候、むかしあいのわるきときのさたをたかいニかたりあい申、いろさまの事を申、いらい申候」と記し、政宗は名護屋で義光と度々会い、昔相性が悪かった時の評判を互いに語り合い、色々様々な事を言い、わだかまりを払った、と書いています。
また、政宗の朝鮮滞在中の手紙としてよく引用されるものに、母・義姫との「国際便」というのがあります。文禄二(1593)年七月二十四日付けの書簡で、日本から朝鮮に届けられた母からの手紙に対する政宗の返書です。朝鮮と日本、海を隔てて手紙をくれたお礼を述べ、朝鮮での出来事などを詳しく知らせています。加えて母からは、手紙に添えて金三両が届けられました。長い手紙ですが、手紙にはまずこう書かれています。
「筑紫までの便りでさえ着くかどうか心許ないというのに、高麗・唐と音にも聞こえた遠隔の地へお便りをくだされたお志、感謝申し上げます。天道も恐ろしく思われる程です。これ以前、こちらからも折にふれお手紙を差し上げましたが、遠路のことゆえ、三つに一つも届くのか心配です。」
母が贈ってくれた金三両に応えるため、彼は母に贈る土産物を捜し回ります。しかし、「おどりたちはねあがりたづねまはり候へ共、御めづらなる物(珍しい品物)」は見つからず、いろいろ手に入れてはみたが、飛脚を使って遠路日本まで送れるような物がない。思案のあげく、朝鮮の木綿織を贈ることにしました。「日本の関東で織られる木綿織より美しいのではないかと思うのですが、比較できませんので、本当のところは判りませんが」。と書き添えています。
そして、政宗の手紙の場合、実は追伸が注目点でもあるのですが、この手紙の追伸には朝鮮の戦況も書かれています。
「此国にては、水ちがい候ゆへ、人々しにうせ申し候事、中々申すがおろかにて候。われらはふもつづき申し候や,いまにはづらひ申さず候。あはれ此ぶんにていのちつづき、一たびおがみ申したき御事までに候。此ほか申し上げず候。かしく。(この国では、水が合わないため、多くの人々が死んでいます。私は内臓が丈夫なためか、これまで病気はしていません。どうかこのまま命永らえ、もう一度母上にお会いしたいと念願するばかりです。この他、申し上げることはございません。かしく。)」
朝鮮出兵の兵站方法としては、海上輸送を予定していました。要所、要所で寄港し補給するもので、必要な物資は確保されていたものの、前線の進み方が早く、補給が追いつかなくなっていました。若き大将と統率困難な猛将で構成された前線は、制御が効かないままむやみに北上してしまい、兵糧が十分に調達できず餓死者が大量に出たのです。補給路も朝鮮水軍により阻まれ、明軍により食糧貯蔵庫が焼かれたりもしました。ストレスや寒さなどから伝染病が蔓延。飢餓や疾病による死亡が、戦闘よる死亡よりはるかに多くなってしまいました。それにしてもロジスティック(兵站)無視というのは日本の伝統なんでしょうか。食糧の現地調達を前提とした某軍のインパール作戦はさらにひどいものでしたが。
○ 戦果品の話
では、中学レベルを超えたオリジナルの問題を。
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約七万人ともいわれる捕虜として連行された朝鮮陶工により日本の陶磁器文化が花開いたため、朝鮮出兵は別名( )と言われている。朝鮮国の陶工たちによってもたらされた( )や( )によって、たくさんの焼き物が作られ、それらは伊万里港から全国そしてヨーロッパ諸国に売り出されていった。
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解答と解説です。
最初の答えは「やきもの戦争」。これはサービス問題ですね。次の答えは「蹴(け)ろくろ」と「連房式登り窯」、難問というか窯場の近くにでも住んでいないとわかなり専門的な問題です。手回しのろくろが蹴りになることで効率的に作れるようになり、連房式つまりいくつも窯が連なることで大量に安定した焼成ができるようになりました。当時の朝鮮の陶芸技術は、朝鮮と明の国だけが保有していた最先端技術でした。そのため「捕虜の中でも、陶工をまず先に送るように」という命令が出され、朝鮮の数多くの陶工が捕虜として日本に連行され、西国の大名たちの領内で陶磁器を生産しました。鍋島焼で有名な鍋島藩では、技術流出を防ぐために陶工の領地外への移動を厳しく制限したといわれます。
捕虜のほとんどは農民で、日本ことに西国では、農民が陣夫役などで朝鮮に駆り出されていたため、連行された朝鮮農民は奴隷として農耕を強制されました。日本からの人買い商人が朝鮮人の首に縄をかけて引き立てていく光景も見られたそうです。朝鮮人の死者と捕虜の数は日本人とは比較にならない程多かったとのことです。
なお、伊万里焼というのは、伊万里という窯場があるのではなく、陶磁器の積出港である「伊万里津」に由来するものです。
最後に、試験にはまず出ないであろうオリジナルの問題を。
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戦国時代には戦闘地域の住人を拉致して売り飛ばす( )という行為が一般的に行われていた。また、戦闘の手柄を示すものとして、敵軍の首のかわりに( )切りや( )切りが行なわれた。秀吉は「集めたものが枡一升分になった者から住人の生け捕りを認める。」とし、秀吉から派遣された軍目付(いくさめつけ)が諸大名からそれを受け取り、「( )状」を出した。
朝鮮人に対し日本の武将たちは競ってこれを行なった。それは相手が戦闘員のみに限らず、非戦闘員の女性たちにも行われていた。切り取ったものは( )にして樽に詰め、秀吉のもとに送られた。数千から万をこえる数が、海をわたって秀吉のもとに送り届けられた。
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それでは解答と解説です。
最初の答えは「人取り」です。そして切ったのは「耳」や「鼻」です。これを升いっぱいにすると人取りを公認しました。軍目付は「鼻請取状」を出し、切り取った耳鼻は「塩漬け」にして送られました。
戦国時代において、恩賞の基準となったのが討ち取った首の数です。敵の大将クラスは首で検分しましたが、足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を確認していました。討った敵兵の首は腰に下げましたが、それが多いときには上唇の部分を切り取り運びました。上唇にある髭の剃り跡で、成人した男であることがわかります。
戦果の首は塩漬けにされ、塩のかわりに酢や高級な武将の場合はアルコール漬けつまり酒に漬けることもあったそうです。朝鮮出兵では、軍目付が諸大名ごとに鼻の数を点検して請取状を出し、諸大名は鼻切りをした家臣に請取状を出して鼻切りを競わせました。加藤清正などは、家臣1人につき鼻3つを割り当てたそうです。
秀吉は、朝鮮出兵で集められた耳や鼻を京都の方広寺大仏の西に埋め、塚を築き、「慈悲」を天下に示そうと五山の僧侶400人を集め供養しました。高さ約7mの塚の上に五輪塔が据えられています。当初、「鼻塚」とよばれていましたが,現在は「耳塚」とよばれており、京都国立博物館の北西に耳塚公園というのがあり、その西隣にこの耳塚があります。
二度目の朝鮮出兵中、慶長三年八月一八日に秀吉は亡くなります。その死は秘匿され、日本側はこれを機に朝鮮半島から撤兵します。朝鮮出兵は日本にとって多くの戦費と兵力を費やし,大名や民衆の負担も大きく,豊臣政権が没落する原因のひとつとなりました。また、朝鮮も農民を失ったことで田畑が荒れ飢饉となり、明も国力がそがれ清となり、どの国も損害ばかりの戦でした。
〇 虎と馬と梅の話
さて、加藤清正は「虎退治」で有名ですが、朝鮮で仕留めた虎の肉を塩漬けにして秀吉に送りました。虎の肉は補薬(ほやく:精力増強の薬)として珍重され、秀吉は健康になる薬として、見ることよりも食べることを重視していました。また、「虎の脳みそ」が長寿には一番効くとして、歳をとってからの息子・秀頼のため、秀吉が長生きするようにと送ったそうです。しかも秀吉は、武将たちに虎を狩るよう命令したため、武将たちはこぞって虎を狩り、肉や頭を送りました。しかし、あまりの量にさすがの秀吉も「しばらく虎は不要」とお達しを出したと言います。
また、加藤清正は肥後熊本の藩主ですが、熊本に馬肉の食文化が根付いたのは、この朝鮮出兵の頃と言われています。当時、朝鮮に渡った日本軍は、食糧不足に陥りました。とりわけ蔚山城(いさんじょう: ウルサンソン)など現地の築城とそこでの戦いをめぐっては、兵糧と水不足になやまされ、資材を運んで不要になった牛馬は皮をはがれて食用となりました。加藤清正は帰国後、馬刺しを好んで食べ、また、熊本では馬は古くから農耕や輸送に使われ、余剰の馬は食用にしていたことから、馬肉を食べる習慣が生まれたといわれます。
つまりは、秀吉が虎肉を食べていた時、現地では馬肉を食べていたということで、トラとウマでトラウマというか、とにかく、朝鮮出兵でもたらされたものは、陶工と耳鼻や虎肉の塩漬けそして馬食文化だったわけです。
さて、そんな朝鮮出兵において伊達政宗は、母には朝鮮木綿を送り、領地には梅ノ木を持ち帰ります。地面に伸びる幹が、まるで龍が這っているような様から臥龍梅(がりゅうばい)と呼ばれます。臥龍梅は政宗の隠居城(若林城)の庭に植えられますが、現在は宮城刑務所になっているため一般には非公開です。また、政宗の菩提寺である松島の瑞巌寺にも、持ち帰った臥龍梅が植えられています。やはり政宗は伊達です。