▼薩長史観の正体2020/12/05 21:19 (C) 製造業で働く
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近現代史の学び直しのため、「薩長史観の正体」(武田鏡村著)と言う本を読んだので紹介する。
(幕末動乱編)
明治維新150年、御用学者の嘘で固められた薩長史観を信じてきた。薩長は討幕の密勅を偽造したが、徳川慶喜の大政奉還により平和的に権力移譲(慶応維新)された。幕府は、薩摩や長州に比べてはるかに開明的で開国による近代化を進めていた。
吉田松陰は、激情に駆られて変節して、暴力革命を礼賛するテロの扇動家だった。松陰の教えは、数々の暗殺や暴発などのテロ行為を正当化し、のちの日本を侵略戦争に駆り立てた。西郷隆盛は、僧侶を殺し江戸を混乱させ、同調者を見殺しにした無定見な武闘派の策謀家だった。下関戦争と薩英戦争は、薩長攘夷の無謀さを示し日本を危機に晒した。尊王攘夷は孝明天皇の真意であったが、天皇を玉と見立てて幕府と奪い合った。長州出身の陸軍・山形有朋は天皇への絶対服従を説いて軍人勅諭に繋がった。奇兵隊は民衆の武装を無制限に認めたことは画期的だが、その無秩序ぶりは戊辰戦争で発揮され、会津などの民衆を苦しめた。山形有朋の作った陸軍は、吉田松陰ゆずりの精神論だけが先走る体質は帝国陸軍へと引継がれた。
長州は、池田屋に集まり京都を火の海にし、御所を襲い孝明天皇を拉致する暴挙を計画した。禁門(はまぐり御門)の変は、長州が孝明天皇に刃を向けたものである。薩長の志士で共通するのは女好きであり、倒幕のシンボルである錦の御旗は薩長の偽物であった。西郷隆盛は、勝海舟から国内で争うべきでなく、幕府に代わる雄藩諸侯による合議制の連合政権を作る構想を知り驚いた。坂本竜馬も勝と同じ考えだった。高杉晋作は、下関戦争の賠償金を言葉巧みに幕府に請求するよう働いた。
第1次長州征伐では、長州は幕府軍にひれ伏した。薩長同盟を仲介した坂本竜馬の背後には、英国グラバーがおり謀略によって内戦を意図していた。第二次長州征伐は長州も幕府軍もにらみ合いでこう着状態が続いたが、将軍家茂の死(毒殺?)と孝明天皇の死(毒殺)で幕府軍は撤兵した。
(慶応維新)
孝明天皇は、薩摩と岩倉具視の陰謀によって毒殺(ヒ素中毒)された。(英国公使館アーネスト・サトウの後日談あり)薩長史観ではこの秘密は禁忌とされる。薩摩が目指す武力討幕と土佐が目指す大政奉還の間には大きな亀裂があった。討幕の密勅は偽造されたもので、文章として明らかに証明されている。まったく出鱈目な宣旨によって、薩長による幕府討幕の正当性が認められた。
大政奉還は慶応維新というべき歴史的な偉業であり、世界に誇るべき無血革命であった。坂本竜馬は、大政奉還による新国家を推進したために暗殺された。
鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争は、官軍と朝敵軍の偽りの大義を名目とした戦いだが、官軍の財源を確保して経済力を奪取するための国内戦争だった。岩倉と山内容堂の議論が紛糾した時に、西郷隆盛の「短刀1本で済む」との恫喝で議論は終結した。「ええじゃないか」は薩長が仕組んだもので、騒乱を起こすことにより進軍を偽装するものだった。
(戊辰戦争)
江戸の騒擾は幕府側を逆上させようとした挑発行為であり、軍資金を強奪するため戦端を開くための口実作りであった。上野一帯では彰義隊を殲滅するために、官軍を称する討伐軍が一方的に戦いを仕掛けて多くの人を殺害した。死体は腐敗するまで晒され、江戸市民の見せしめになった。人肉食もあったと言われる。錦の御旗は薩長の偽造であり、大政奉還されているにも関わらず、戦いで権力を勝ち取ることを鮮明にした。
鳥羽・伏見の戦いは、5千の薩長軍に幕府軍は1万5千と優勢だったが、錦の御旗に騙された徳川慶喜が朝敵になることを避けるため幕府軍は退いた。恭順の意を示した徳川慶喜への追討は、武力で日本を制したい薩長の口実だった。江戸城を開城させる条件は、反薩長の諸藩を見殺しにするものだった。 外国勢力は戊辰戦争を内戦と捉えて局外中立を保つよう本国から指示されており、植民地化を意図してなかった。幕臣の小栗忠順は日本の近代化の基礎を作った先駆者であり、暴虐な薩長の体質を見抜いていた。松平容保は幕末の混乱を沈静化し、孝明天皇を守り抜いて奮闘した正義の藩主である。
長州の世良修蔵の卑劣で貪婪な挙動によって奥羽列藩同盟が成立し、無用な戦争が起こされた。長岡藩家老の河井継之助は、征討軍の理不尽な態度のため、やむを得ず挙兵に踏み切った。北越戊辰戦争では、河井継之助の指揮で同盟軍は3ヶ月にもわたり奮戦し、山県有朋を裸で敗走させた。会津は、負傷者の殺害、人肉食、強奪、強姦など新政府軍は徹底的に会津を蹂躙した。これは日本帝国陸軍が日中戦争などで行った蛮行と類似している。白川以北は一山百文と、薩長は東北を蔑視し続けた。長岡藩のほかにも庄内藩は官軍を寄せつけず薩摩兵と互角に戦った。
東北には当時の世界情勢に対する理解が足りなかったのか、その後の東北の開発の遅れも薩長史観によれば合点がいく。日本史教科書で習った明治維新は、薩摩長州の極悪非道を知ることによって、私たちの近現代史を正しく見つめ直すことが大切と考える。
上野公園の西郷隆盛の銅像や庄内地方の南洲神社など、真実の歴史の理解のもと存続の可否が判断されるべきである。また、公共放送のNHKが大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」などで日本人に誤った歴史観を繰り返し擦り込んでいること、小説家の司馬遼太郎の幕末維新期の諸小説「竜馬がゆく」なども改めて再評価が必要と感じる。