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▼シンポジウム「獅子舞と修験と熊野信仰」開催

シンポジウム「獅子舞と修験と熊野信仰」開催/
20日21日と二日間に渡り「獅子舞と修験と熊野信仰」と題してシンポジウムが開催された。

私も獅子彫り師として「置賜の獅子頭の変遷」について発表させていただいた。

異常な緊張感でガチガチの講演だったが、兎にも角にも安堵感から脱力感に変わりつつある。

半年の準備期間は七転八倒の産みの苦しみを味わった。

これで懲りて講演など引き受けるものではないのだが、来年二月二日に飯豊町での獅子頭調査

報告会が決まっている。


今回の講演の成果は二つの仮説を見出したことだ。

一つは長井の獅子舞の起源とも言える総宮神社の獅子舞の起源についての説である。

総宮神社略史の一節を解説し、圧縮冷凍された文章を解凍して膨らませていくと漠然と不詳だった

ことが現れてきた。

最初の獅子舞は神社内の伊勢大神楽系の獅子舞で雅楽が奏でられ行われた。それも廃れると境内でも

行われるようになった。

廃れるとは・・急激な政権の影響による変化だろうか? 創始時期の獅子頭は大きさも一尺四面とあり、

現存する獅子頭の寛文十一年(1671年)改の獅子頭よりだいぶ小さい。

さて「改」という記名は何を意味するかが重要になってくる。修理されたものか、作り直されたものか。

「改」と記名ある獅子頭は寛文十一年以降140年に渡り6回の修理を行ったという記録があり、この事から

新しく作り直したと解釈するのが妥当だろう。寛文十一年から遡ること84年の天正15年(1587年)伊達政

宗の家臣、片倉小十郎景綱が宮村の小桜城城主となっている。また片倉小十郎景綱は伊達政宗4歳の頃、天

然痘を患い飛びたした右目をえぐり出したという独眼竜政宗となった逸話を残している。戦国武将の激しい

忠誠心を現した逸話だが、その逸話が寛文十一年改の獅子頭の飛び出た左目の謎を解く鍵だったのではない

か。




              安部義彦氏資料写真より右目を抉られた鮭の例祭の供物

あくまでも仮説だが、小桜城城主の小十郎が、政宗の眼病平癒、天正19年の鮎貝攻めの戦勝を祈願し、君主

のえぐり出した右目の表情を彫り込んだ獅子頭を作らせ獅子舞をさせた。

飛び出した左目は健全な目で、えぐり出した右目が小さく彫られているとも解釈出来る。

更に、例祭の行列の出し物で「雲に三日月」の灯篭が現存している。三日月は伊達政宗の兜の前立てに非常

に似ているのだ。月を兜の前立てにしたのは妙見信仰の眼病平癒を意味している。

また、例祭の神前に供える鮭は昔、野川に遡上した片目の鮭で、現在はやはり右目をえぐり出した鮭を供え

ているという。

何故、伊達政宗を暗喩させる片目の鮭を供えるかは政宗と犬猿の仲だった直江兼続が関係し、伊達の遺風を

一掃する政策もあり、その一つと考えられる。

三淵の龍神が日照りの年に河原をお神酒を飲んで渡り帰る時に、酔った勢いでイバラのトゲで右目を怪我し

た故に

毎年、総宮神社のお祭りに雨を降らせる・・とする伝説も獅子頭の飛び出た左目を説明する脚色が後に作り出

されたのだろう。

由緒の一節に、天正十八年片倉氏が奥州へ移封された時に宝物や古文書も一緒に移してしまったとある事か

ら、詳しい資料が乏しい。果たしてベールに覆われた初期の獅子頭が奉納された経緯は分からず仕舞いだろう

か。現在、宮城県の白石市に片倉氏関係の古文書について問い合わせている。



もう一つの成果については次回に続く










                               
2018/10/23 08:23 (C) 獅子宿燻亭7
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