ヤマガタンver9 > 閲覧注意 手足見つかる・・

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▼閲覧注意 手足見つかる・・

閲覧注意 手足見つかる・・/
・・といっても殺人事件現場の話ではない。

江戸時代の末期まで、総宮神社の例祭に豪華絢爛な屋台、山車が複数出たという資料がある。

宮村の総宮神社から小出村の白山神社まで渡行したのだという。

 長沼牛翁(1761〜1834)が郷土の伝承などを纏めた随筆集「牛の涎(よだれ)」の巻34

には「7月18日祭礼、夜ハ神輿小出村白山の祠(ほこら)へ渡行あり、元禄7年(1694)より此の事始る、出しもの18行なり」と記載され「歳々風雨物直咄(はなし)集」に、「宮正一位惣宮大明神之七月十八夜御通り、小出村白山様(白山神社)迄有し、宮村小出村の丁(町)々にて、やだい(屋台)を出し、八ツ、九ツも出申也」、その時ハにぎやか成る事見事なり、其の後がし(餓死)不作仕處に、上杉様より兼約(倹約)を被仰出段々やミね」と見え屋台は段々に作れなくなった。

山車(屋台)は、江戸時代末の記録によれば、新町、十日町、大宿(大町)、川原町(栄町)、本町、あら町、の各町から一台づつ出し、「五条の橋の弁慶と牛若丸の闘い」、「女大将巴御前の奮戦」などの芝居の一場面を作り、十日町の丸大扇屋が、人形の頭、手足、衣装、帯、小道具を各町内の出し物に応じて貸し出ししていた。文政頃の各町内の借り賃が四百文から一貫五百文だったという。

渡邊敏和氏著作 「置賜の山車・囃子屋台について」より引用

この記録にある人形の手足や頭が、旧郡役所が丸大扇屋の膨大な所蔵品の倉庫にあるという話を思い出し、その当時の調査した記録を依頼した。現在は長井病院の倉庫に収蔵していて、その記録に基づいて確認してもらうと人形の手足が出てきたのだ。段ボール4箱には手足が梱包されていたが記録写真にあった記名入りの木箱は不明である。頭もあったと聞いていたが、それも出てきていない。

これで江戸時代の記録にあった屋台山車の話は現実のものになった。










不明の木箱には文政五年 長沼政盛 目録には人形頭 手 足・・とあり、この木箱に入っていた貸出し用の人形の部品と言う事だ。






紙袋には「屋臺(屋台) 松の葉入 長沼政盛」と記され、中には緑色に染めた麻の繊維があった。
これは舞台の背景の松の葉に用いたものだろう。
最初、屋台の演目「松の葉」という情景なのかと調べてみたが単に「松葉」で納得した。





このブログで弘化三年、米沢の白子神社の神輿渡行の絵図についてご紹介した。
長井でも、この絵図の様な豪華絢爛な山車行列が獅子舞と一緒に練り歩いた事になる。
その情景を思い浮かべてみると現在、先頃世界遺産に登録なった「新庄祭」の様な祭だろうか。

秋の夜長、しばらく歴史ロマンに浸っていられる話である。

2017/09/17 08:01 (C) 獅子宿燻亭6
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