▼野生動物を獲ると言う事2011/12/08 16:29 (C) 山の仙人になりてーなぁ〜
▼う〜む…何がどのくらいでちょうどよいかは
普段からそれに接してる人じゃなきゃ分からんし 結局、自分ルールの軸がぶれなきゃ それで、いいと思う 普段から思ってる事を 改めて言葉に記すのは 自戒っぽいね オラは、仙人にはなれそうもないから 自戒は公言せんでおこう… 2011/12/09 05:09:麦チョコ
▼麦チョコさま法律と言うのがむずかしいもので、沖縄と北海道がいっしょくたんでは都合が悪い事も、法では一律なのである。
都会と田舎でもおんなじなのである。 何が正しく或いはそうでないのか、それは人それぞれであろうし、また、自分の中であってさえ、時々により違いもあろう。 難しい問題なのである。 しかし、自戒ではないのである。 2011/12/09 21:21:kuma仙人
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此の処、クマ猟の話しばかりであったが、ここで、その事について触れたい。
クマを獲るという行為ではなく、何故それを行うかと言う事について書きたいのである。
今年、オイラの仲間うちで3頭のクマを授かった。
山を歩き、谷を渡り、急な崖を登り降り、雪の中を歩き、寒さに震え・・・・・
決して楽な作業ではなく、それなりの労力と時間と知恵や体力がクマに勝った時にだけ与えられる自然からの贈り物であると思っている。
それ以外にも、確実に獲れる状況は幾度かあったが、幾つかの理由により敢えて獲らなかった事もある。
そりゃ、俺以外にだってクマを獲りたい仲間がいるって事。
毎日山に出向く俺には、撃てるチャンスは多い。
しかし、もう獲っているので、まだ獲っていない仲間や、たまにしか出向かない仲間の為もある。
差し出がましいような意見ではあるが、そう思うから仕方がない。
それから、クマの生息数についてであるが。
オイラの見立てではあり、確実な研究調査が根拠ではないのだが、それなりの頭数がこの地域に生息していて、やや多いと見受けるのである。
クマが多いと言う事は、自然が豊かであることの証拠でもあるが、過密と言う事になれば、人との出会いや、山林の杉の木の皮剥き被害など増える訳である。
また、夏の山の餌が不足したりすれば、クマたちは大挙して里にやってくる。
それが原因で、駆除、捕殺などが起こるが、それを手助けするのもまた猟師である。不本意な猟はやりたくないし、苦痛でさえある。
しかし、社会的な貢献もまた猟師に求められており、近所の農家の悲しむ顔を見ているのも辛いのである。
また、季節がら、駆除捕殺したとしても、その肉は美味しくないし、捕獲手段もクマの生態を利用した手段であって、万が一、数に限りがなく捕獲を許されたなら、殆どのクマを捕獲する事が可能であろう。
仕掛ける餌の種類によっては、山に居るクマさえもおびき出し、捕獲が可能な訳である。
そういった状況を回避するためにも、山での生息数量の調整は必要ではないかと考えている。
最近では、捕獲後の放獣という手段もあるが、それさえ広大な面積を持たない日本にあって、完全な手段とは言い切れない。
(絶滅したと言われる九州や、危機的状況の中国・四国地方で欲しいという要請があれば、送ってみるという法もあるが、動物園でのやり取りと違い、難しい面もあるのではないだろうか)
クマを獲らない事だけが、クマが安心して住める環境ではないと思うのである。
人身被害や農林被害が多くなれば、感情はクマを獲る方向に向くのである。
世論に圧され、必要以上の頭数を捕獲し、問題になった事もあるではないか。
丁度いい頭数と言うのは難しいが、ちょうどいい付き合いが必要なのだと思う。
何をもってその数量を決めるのか・・・と言われれば、返答に苦慮するのであるが、一言で言えば「経験」と言うしかない。
山のふもとに家を構え、そこで農業に従事し、春先からクマの動向は見て取れる。
過去からの経験や、登山、キノコ採り、山での猟師の経験などを基に考えれば、数値的な事を抜きに、クマの出没などを予測できる。
今年は、まだ山の神様は許してくれるのではないかと考えている。
今、今年この地域で、「クマを獲りすぎだ」と言っている方がおられると聞いた。
どうだろうか。
例えば、私の口から和田地区には最低○○頭以上のクマがいて、多すぎる、と公表したのなら、クマハンターが押し寄せそれこそクマが絶えてしまうとも限らない。
少なすぎるのなら、私は個人の判断でクマ獲りを自粛するだろう。
しかし、それをほかの猟師に強要は出来ない。
また、多すぎるからと言って、問題提起し、大掛かりなクマ猟を仕掛けたりもしないのである。
クマ猟に向かう全ての責任は、それに向かう人自身にあるのだ。
その中で、自然環境や社会的なものの考え方は個人的に違うだろうし、
統一も難しかろうと思う。まして、わたしが各人に教えるべきことでもないのである。
今、現に私は、この地区のおおよそのクマの頭数を知っているし、それはこの目と足で確認したものであって、推量ではないのである。
地区の面積あたりに対するクマの生息数が分かり、全国的な数と比較も出来る。
私は、クマが好きである。
ずっと未来まで、クマが住む森であり、その自然を大切にしたいのである。
そして、クマそのものが生き残る事が願いでもある。
わたしが放った弾丸が、彼等を貫かない事も喜びであり、また、貫けば、自然や山に感謝し、そして、彼らが生きる環境を守るためにその肉を喰らい生かしてもらうのだと考える。
矛盾・・・かもしれない。
が、そう思っている。
クマを獲る事は、容易ではない。
断じて生易しい事ではないのである。
まさしく仙人の如き、であろう。
叉鬼・・・鬼の如きでもある。
しかし、それは、クマと未来的に付き合える事を願う優しい気持ちも持ち合わせているのである。
クマがカモシカみたいな保護動物になれば、捕獲は出来ないだろう。農林被害も人身被害も、ただ見ているしかなくなってしまう・・・・かもしれないのだ。
野生動物とうまく付き合えるのがいい。
そして、私自身には、クマ猟にゲーム性はない。
これは、ここに生きると決めた俺の、自然との強力な接点であり、その全ては自然からの教えだと考えている。