▼エゾシカ食考察2010/12/03 18:59 (C) 山の仙人になりてーなぁ〜
▼目指すべきものたとえば自分、犬と鼠とミミズと分解得意な微生物が家族であり、
いつも一緒にくらしているが、もちろん好物はバラバラだ。 まあご想像通り、それぞれが無駄無く生命と栄養素を吸収するのだと 話を持って行きたいのだが、途中で自信がなくなった(苦笑)。 好きな物を食いたいが、無駄にもしたくないって言いたいのさあ。 マクロ的には地球規模でのリサイクルの中で、バランスを保つ生活… ミクロ的には好きな物を喰い、残りも無駄にはしない。 そんな自分の思う輪廻の中に、身を置きたいが未だままならず、 薪割りで身体を温めることも、糧を得るために堆肥もつくることも、 まして獲物をバラして家族に食わせたこともない。 フフフ、知りたい事も楽しみたい事も身体に染み込ませたいことも、 まだまだたくさんある!(年齢的に無理か!?) だから面白いのである! そしてそれが生きる糧になる! 霞の向こうだけど、きっと自分が目指すものがあるはずと… また、一緒の時間を共にし刺激を与えてくだされね! ん〜〜、梅酒飲み過ぎたか(笑) 2010/12/03 23:37:タッシー:URL
▼タッシーへまあ、無駄と言いながら、犬や猫が食べ、鹿の脂肪なんかはニワトリや鴨たちが大好きでつついている。
家に来たものは、何らかの器官を通り抜け、微生物の餌食となりやがて土に帰る。 言葉のあやであるけれど、無駄なんてないのです。 無駄に死んだとしても、必ず何かしらの作用を受け、どうかしら元素の単位にまで分解され、科学結合を成し遂げあらゆる物に変化しうる。 何がむだで、そうでないのか、 地球規模で考えたら、その総和がゼロであるのであろうから、何もなく、ない事があるのでありうるのだろう。 いまの生活の中で無駄・・・とは、つまり自戒ですな。 罪の意識に懺悔を求めたくなる人間の弱さだろうか。 霞を喰い生きると言われる仙人には程遠く、まして、なれるはずもなく・・・、物語の死の扱いには涙し、神があるならその威光を信じたくなる事もある普通の人間であるが・・・・、 そうじゃないんだという、俺の生活と生き様がかたくなに、それが神の仕事ではなく自然と言う自然たるもののなす業であると思いたいし受け入れる事が俺でありたいと思っているのである。 俺は、タッシーやヒロ坊や、shidareoさんはじめ多くの刺激してくれる仲間の中で、俺が存在しているのかもしれないと、いつも想わされるのである。 2010/12/04 19:58:kuma仙人
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まあ、このところ手に入った蝦夷鹿の肉を充分的な量食べている。
賛否はあるだろうが、これを美味しく食べるには工夫が必要である。
肉・・・その身体を全て無駄にしてはならない・・・・・・
ならば、どうぞお好きなように、それが条件なら私は食べなくていい・・・・。
獣肉はすべて、牛であれ豚であれ、全てが食卓に並ぶ訳ではない。
どうか勘違いなされないでほしい。
万が一、余すことなくすべて喰らうならば、
それは、本当に貧しい昭和初期の狩猟者であったり民衆、同意として、ほぼほかの食物を得得ない状況の人々である。
ここに、それを軽視したり軽蔑する訳ではないことを明記するが。
アンデスの山中奥深く飛行機事故にあった、人々の苦しさと併せ、その食・・・生命そのものの維持のための食とは区別したい。
そう、現代の通常の食生活では、経済範囲のなかで廃棄すべき部位は廃棄し、また、その部位の人気度、過少度などの理由により値段が違う。
大トロは高く、その骨や皮、ヒレなどの捨てる部分には値段がつかないということである。
生命の維持そのものには、食せるすべてが命を維持する食物であり、現代飽食の食とは、その部分が大きく異なる。
旨い、というのは贅沢なのである。
”汗と灰塵と泥の上に”アセトアクタトドロノヘニ 藤村の詩集にあるが、
その上にできた食べ物が全てうまいのではないのである。
有機栽培であろうが、安全安心を謳おうが、そんなことはどうでもいいのである。
関係ないのである。
有機栽培や、安心安全が食のスパイスとなりそれをより一層おいしく食べさせるのなら、そんな楽天的幸せはないだろうし、そんな夢物語は現実に起こり得ないのではないだろうかと言う疑問は多くの人が感じているのではないだろうか。
高いお金を払い、求めた有機栽培のお米がすべてうまいとは限らない。
お米を作るにせよ、安心安全だけではうまいお米は作れないのである。
そして、想いだけが走ったところで、それは、コメを作ったという事実のみであり、そこに作者の喜びを食するものに強要する錯覚を見てしまうのである。
旨いコメをつくりたい。
安心安全なんて、旨いためのコメを作る二次的なものである・・・と、俺の場合は思っているのである。
鹿の肉であるが、その脂はまずい。
だれが何と言おうが、まずい。
脂肪に苛性ソーダを混ぜると石鹸になるが、エゾシカの脂は、苛性ソーダを混ぜる前から石鹸ではなかろうか、という状況である。いや、石鹸と言うより、ろうそくの蝋ですな。
それを好む方がおろうかもしれないが、俺は、そんな方の意見を否定する気もないが、俺の主観では蝋燭の蝋である。
で、その肉を美味しく食うには、大きな無駄が必要である。
そして、それを旨く感じたなら、それは奇跡に近いのである。
奇跡を行うのが、職人である。料理職人である。
今日、まあ、またシカ肉のソーセージや燻製を頂いた。
まあ、・・・・・まあ・・・・ 嗚呼・・・。
旨いもの食った後にこれは・・・・・・・。
頂いた方の行為には感謝ではあるが、
本当にその気持ちには感謝と、その心意気に敬意を払う。
ん〜。
ここで、こんなこと書いちゃっていいのか自分でも自身がないのであるが、
ならば、俺が一番うまいのを食べてもらえばいいだけの事かな・・・・。
ん〜〜〜〜である。