▼やるせない日々2010/09/08 07:41 (C) 山の仙人になりてーなぁ〜
▼感謝です!最近の仙人様のブログから、怒りなど察しておりました‥。
誰にでも、愚痴ったり、不平不満に思うことあります。 しかし、そう思うことにより、もう一度そう思ってしまったり、イヤなことが起きると思います‥。 多分年下と思われる私がいうのもなんですが、今まで受けた行動に感謝です。 朝早くからの草刈音、消毒の散布音、誰が考えても、非常識!と思われます。 しかし、そういった行動があったからこそ、自分はしないし、そして迷惑だと考えさせて頂けたのです。【ついてる】んです。 都会では、防音なっていて、物音一つきこえないかも‥。 自然の中での、ありがたい音であるとも思われます。 私も身近に、早朝から、農家音?感じます‥。 ついてる、しあわせ、ありがたい、感謝と思ってみるのはどうでしょうか‥。 なかなか難しいけど、私は、そう思う努力をしてる所です‥。 気分を害されたらスイマセン。ただ、そういった考えもあること、感じて頂けたらなぁ‥と。 人生楽しくいきましょ! 2010/09/08 16:04:ダッフィー
▼ダッフィーさまどうも、どうも
御指摘ありがとうございます。 私の怒りは、私に向けられた、私の感じる騒音等ではないのです。 私は、それを自分の怒りにする事によって、私以外の途方に暮れる隣人であったりを、守りたいのです。 怒りや憎しみは、私個人の所有であるのですが、私以外が受けるそれによる(常識を外した騒音などの)苦痛は、改善されるべきなのだと考えます。 私は耐えればよいのです。 しかし、日常の幸せな時間を失いかけた人があり(息子を失いかけ、その看病に毎日涙を枯らす老夫婦)、その騒音の主はそれを知らない訳ではないのです。 ダッフィーさんのようにそれを感じ、私はそれをしないと宣言できる人だけならば、怒りは発生しないだろうし、ささやかな苦痛はお互いの生活を理解したうえで、耐えられるものになるのでしょう。 私に向けられた苦痛や、罵声は甘んじて受けます。 しかし、私は、私の友や、守られるべき老人、子供、弱者に向けられる理不尽は許したくありません。 それは、赤紙で若者を徴収し、戦地に、死地に送った政治家や思想を許す事が出来ないと似ているのです。 弱者を忘れた、健常者に、幸せな世界がつくれるのだろうか? 私とて、騒音をまき散らす行為をしないではありません。 迷惑をかけず、間違いなく生きれる訳でもありません。 しかし、気遣いは忘れません。 それが、騒音といわれ、耐えがたきものならば、指摘を受け改善すべき事ですし・・・。改善もかなわくば、辞めざるを得ない。 正直、冷や冷やとしながら農業をしています。 誰もが完全ではなく、完璧な不完全であるのです。 互いに、耐えあうのではなく、いい方向に向かうために、意見し合える事が望ましい時代なのではないでしょうか。 黙って耐えるには、職業も、家族体系も、生活スタイルも多様化してしまったのではないのでしょうか。 あなたの御指摘の通りなのですが、 人生楽しく行きたいのですが・・・・ より多くが納得できる策を探したいですね。 そう、土日勤めの人は、PTAでも部落でも何でも、土日の行事が多いから大変なのです。 みなが公平であるを追求するなら、平日の天気の良い、皆が一応に仕事を休まなければならない時に行事を行うのが最も公平な事ではありますまいか?しかし、現実的ではないから、ある一部に負担を求める事になってしまう。 なかなか、むずかしいのですなぁ〜 でも、御意見頂き、感謝しております。 ありがとう。 2010/09/08 21:54:クマ仙人
▼ありがとうございますありがとうございます。
読んでて、涙がでちゃいました。 ご指摘ととられてしまうのも、しょうがない文だったのでしょうが‥。仙人様を責めてるつもりは、ございません‥。 自分にむけられたからの怒りでなく、周りを考えての怒り!素晴らしい気持ちの仙人様ですね‥。 このような考えの、問題解決、なかなか難しいことですね‥。 考えさせられました。 感謝してます。ありがとうございます。 2010/09/09 07:40:ダッフィー
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稲も、だいぶ黄色くなり、頭を垂れた。
我が田は、倒伏しているところもあり、全体的に倒伏傾向。
頭が重く、実り多いという兆候であるが、倒れてしまっては品質が心配である。
が、天気が続けば何とかなるだろう。
一部カモの田んぼは、和田地区で一番・・・・と言うくらいの稗の田んぼになってしまって、すごい事になっている。
稲刈りに向け、草刈りをしておる。
これまた、愚痴になるが、
雨の間に、御近所の90を超えるばあさんと、茶のみをする。
「息子に、隣の田んぼの草刈りでも手伝ったらどうか(病の親友の事、息子の同級生である)」
と言ったら、「○○で忙しいから、しておれん」と言ったそうである。
まあ、いいわ。
そんなことはどうでも。
誰もかれも、暇で、病気の彼の家の手伝いを買って出ているのではない。
年がら年中、○○で忙しいわけでもあるまい、自分の事は隣近所の迷惑も顧みずまかり通すお人であるから。(もう削除したのだが、先の記事をお知りになる方は想像出来るでしょう)
もう、このお人の事は考えまいとするのであるが、地区のお年寄りとお茶を飲みながらおしゃべりする機会が多いので、後から後から話題がやってきては気分を曇らせる。
我が家の土地も、ブドウ園も氏より借地しており・・・・・、
俺がもの申すには、弱みがありながら、それなりの覚悟で訴えているのである。
最悪、土地を返せ・・・・
それでも、みんなの利益になれば、御恩がある彼の利益になればと、改善可能な指摘は以前からしてきたし、彼の家族に対しても、非常識についていさめた事もある。
ことごとく、そんな指摘するやつは悪である かの如き・・・。
地区で和を持ってありたい。
そのためには、我儘を通してばかりでは、誰かが苦虫を噛まねばならない。
我儘なのが特定の一握りだけであれば、いつかフラストレーションが溜まり爆発する。
常に、ガス抜きは必要なのだ。
誰かが憎まれ役を引き受けて、ガスを抜かなければならない。
はぁ〜
再び、曽野綾子さんがエッセイ中で語っていた事を記す。
最近の民主社会で語られる権利・義務についてその使用法は間違っている。
権利は、自分がすぐ行使するものではなく他人がそれを持つ事を承認するためのものである。
これに対し、義務は、相手に要求するものではない。それは、誰がやらなかろうと、自分が黙々と遂行すればいいものなのである。
めいめいが、この二つを行えば社会は必ずうまくいく。
しかし、最近では、人は全く逆の事を言ったりやったりしている・・・・・・
相手の自己認識のない、故意でない落ち度(過失)を指摘するのは、改善して良くなってほしいからである。
確かに、お互い苦しい時間を産む事にはなるのだが、それを相互理解の上に乗り越えたい。
悪意をもって、相手を落とし込むためのものではないのに、
人によってはそう受けてくれない。
次には、憎しみや悲しみが生まれるだけである。
そんなんが 世の中なのだろうが・・・・
よし、がんばろう!!
追記
誰を責めるのもやめよう。
そう、やめる。
いい方に向かうべく、議論を尽くせればよい。