▼お盆なので、2010/08/16 10:56 (C) 珈琲豆屋です!
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御先祖のことを。
提灯を出しに行った日、家の菩提寺西蓮寺の先代和尚が亡くなった時の席次一覧の中に、親父が作った石塚家代々名という法号、死亡年月日、氏名をまとめた一枚ものが挟まれていました。
後でコピーしようとまた袋に入れたのですが、今日の朝コピーしてきました。
というのは、昨日米沢市史(昭和19年米沢市登坂又蔵刊)の善光寺如来のところを読んでいたら、
天和2年7月18日、午後八つ時過、御堂茶の間より出火、安養院の小者これを発見して急を告ぐ。このとき本城破損奉行齋藤与惣右衛門、石塚与兵衛、並びに大工四人駆け付け消し止め大事に至らず。
当番の御堂衆延命院、正福院、善正院は支度のため現場に居合わせず、遠在蟄居を命ぜられる。また安養院小者へは恩賞として身代五十匁金二十両、与惣右衛門、与兵衛へは玄米五俵宛、大工三人へは三俵宛を下賜す。
(御堂は謙信公の遺骨を納めた堂で、現在の招魂碑の場所にありました。その後明治になり遺骨は御廟に移されました。)
とあります。そういえば似たような名前が親父の書付にあったのではとくらべてみると、まさに当たりです。
遡れる一番最初に書いてある宗月道怡信士が石塚與兵ヱとなっていて、亡くなったのが元禄元年9月30日となっており、この事件は亡くなる6年前のことです。
忠臣蔵が♪頃は元禄14年ですから、古い話です。
まあ、同じ名前の別人という可能性もありますが、私としては御先祖大活躍と思いたいですね。