▼『大谷往来』について2009/05/18 05:30 (C) 朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
|
▼100advertising▼ranking
|
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
|
▼『大谷往来』について2009/05/18 05:30 (C) 朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
|
▼100advertising▼ranking
|
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
|
〈郵便局たよりに載せた〉
若い頃から、歴史や地理に興味があったが、特別な勉強をしたことはなかった。
初めて『大谷往来』を知ったのは、昭和三十五年頃に大谷小の沖津先生が出した『私たちの村』という冊子に載っていたのを見たのが最初だと思う。
昭和五十年前後から、いろいろな原本を見てそれぞれに違うところがあるので、これは何とかしなければならないと考えて勉強した。
初めて皆さんに紹介したのは、昭和六十年頃に大谷郵便局の『郵便局だより』というものに、何か村の情報でも載せようと『大谷往来』のことを書いたんだ。
〈『大谷往来』の写真を同級会に見せようとして〉
昭和四十年頃から写真を撮っていた。北部地区の風景や神社仏閣を全部撮り、同級会でみんなが集まったときに見せようと思った。
昭和六十年頃からは、『大谷往来』の風景をすべて写真で撮ってやろうと思って、大谷のいろいろ名物や風景を撮り始めた。でも、今になっても撮れないものがある。「間木山の残月」「大沼の浮島」など、なかなかうまく撮れない。でも、秋葉山からの景色など、江戸時代と今でも全く一緒だと思う。
〈『大谷往来』を読む〉
『大谷往来』にはいくつか原本があるので、どれが一体本当かというので、各々の文章を集めてとこが違うか調べてみた。
特に鈴木勲先生からは、二冬にわたって文書の解読を北部公民館の行事として教えていただいた。
「落馬をねらう」が「落ち葉をぬらう」になっていたり、「面白岩」が「西白岩」、「北野天神」が「小野天神」になっていたり、いろいろと細かいところで違っていた。「二十丈の松」と「十丈の松」なんかも違うとこだった。
〈『大谷往来』の地名は現存するのか〉
この文章は、だいたい現在も当てはまる。三百年前の風景と今の風景はまったく同じではないが、ほとんど現在に当てはまるものだ。今でもはっきりと場所が分からないのは「狢森」「桐ヶ窪」くらいで、ほかはほとんど分かっている。
「大江の鰌」でも、こんな大きな川があったのかと疑っていたが、古い字限図には本当に大きな川があったようだ。「西堤の鮒」も当時西堤があったのか調べたら、千六百三十年頃には西堤ができていたという記録があった。
〈「彦七」と「風和」について〉
大谷は、白田外記内記と共に栄えてきたのだと思う。「白田」なんて、言葉の意味からいえば「水が無く乾いている土地」ということだから、そこに菅原道真を先祖とする人々がやってきて、いろいろな京風の文化を栄えさせたのだと思う。だから、村の中もT字の道が多かったり、神社仏閣が多いのだろう。
この『大谷往来』の文章をみると、この地方にほんの少し滞在したくらいでは書けないほど情報も多い。だからきっと作者彦七は「風和」じゃないかと思う。証拠がないので何とか探してみたいと思う。でも、彦七だけではなんとしようもない。
〈「風和会」について〉
郷土史講座を北部公民館で長くしてきたので、それを受けて民間の郷土史学習団体「風和会」を作った。自由に北部の歴史を考えたり、『大谷往来』だけでなく、いろいろな古いものを記録に残しておきたいと思っている。
今、大谷は基盤整備でいろいろなものがなくなってしまうかもしれないので、今のうちに見ておきたいと思っている。
写真に撮れるものは撮らないと、特に水に関することはすぐ変わってしまう。ほんの少し前は、「桜清水」「大清水」「香ヶ清水」なんかも良い水が出ていたが、もうすぐ分からなくなってしまうだろう。
「白田」というひどい状態だったところに、水を引っ張って田を開田して生きてきた先祖の苦労を少しでも知るために、いろいろと調べたいと思う。
〈『大谷往来』を永遠に残したい〉
まだまだ、『大谷往来』の文章については調べたい。初木山も間木山も歩いてみたいと思う。三百年も続いてきた文章とその景色が今無くなってしまうのは、本当にもったいない。
もっともっと『大谷往来』を勉強して、多くの人に知ってもらい、これから五十年も百年も先の人に残したい。それには、資料にしたり、本にしたりして残す必要がある。
こんなことが何の役に立つか分からないが『大谷往来』の文章が三百年経って、これだけ多くの人々を引きつけたのだから、またここで大切にすれば、何十年かは残るだろう。
お話 掘 敬太郎さん(大谷立小路)
平成9年(1997)大谷往来シンポジウムにて
※写真は秋葉山頂の秋葉山神社碑と『大谷往来』の説明板