▼直江兼続の開いた朝日軍道2009/04/12 23:23 (C) 朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)
〔なぜ朝日軍道が必要だったのか〕
天正年間、庄内地方が上杉家の領地になりました。その後、上杉家は慶長3年(1598)に豊臣秀吉によって、所替えを命ぜられ、越後の国から会津へ移されます。越後・北信濃を削られまして、庄内と佐渡と長井・会津・仙道の方が領地になりました。120万石ということで、石高はぐんと増えて五大老の一人になるんですが、今まで、越後と繋がっていた庄内が切り離されます。それで庄内と置賜の経営にあたっていた直江兼続にとって、両地方を結ぶ連絡路がぜひ必要だということになるわけです。それが朝日軍道ということになります。(地図参照)
兼続は庄内を治めるために、出羽三山の力を利用しようとして、湯殿山に沢山いろんな物を納めたり、寄進したりしています。さらに、佐野清順という腹心の坊さんを羽黒山に派遣しますが、文禄4年(1595)には寂光寺法頭清順という羽黒の別当に就任し、羽黒全部を押さえたことになります。その後、清順は、関ヶ原合戦の後出羽三山から追われ、朝日軍道を通って米沢へ逃げます。米沢では笹野観音の別当になり、後には定勝の侍者として儒教の先生になっています。
〔置賜の史料に見られる朝日軍道〕
慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。
〔朝日町の史料に見られる朝日軍道〕
慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。
お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)
朝日町エコミュージアム20周年記念事業(09'11.08)
パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」より
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