▼あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の・・・・2010/03/26 09:31 (C) 山の仙人になりてーなぁ〜
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ヤマドリは、オスとメスとが別々に寝ると信じられていて、
ヤマドリの尾のように長い夜を、寂しく一人で過ごすのだなぁ〜
寂しいなぁ 寂しいなったら 寂しいな〜
という趣旨の詩であると、高校の入試の時覚えた脳みそ、俺のハードからCPUが引っ張り出してきた。
はじめてヤマドリに出会ったのは、高校の時。
信州の田舎の実家の残飯捨てる林の中で、残飯をあさっていたのを発見し、なぜかテニスのラケットでたたき落として捕獲。
毛をむしり、喰ってしまった。
当時、あの手の尻尾の長いのはみんなキジだと思っていたのだが・・・・。
sidareo様、
現実ってのは、なかなか厄介なものでありますな。
ここで、穴ぼこをほじくり、セメントを流し込んで、その出来栄えに満足である、と、コーヒーを啜りながら自画自賛。
ふと、頭の中をコンドルが飛ぶと、なぜか、ソマリアあたりの真っ黒な小さな女の子が、骨と皮になり、粘膜のまわりにはハエが群がり、今まさに息を引き取ろうとする姿がよぎったりする。
夢の実現なんて、すべての矛盾を無視した、ほんの小さな世界の中でしか完結しない世界なんですな〜。
それを言ったら、あんた、おしまいだよ〜・・・と、誰か言われるのが聞こえてきそうだけれど。
以前、このログにも書いた事があるんだけれど。
”しあわせ って どこにある?”
と、まわりの人に聞いてみてください。
なるべく、世間に毒されていない、若者の方が面白いと思うのですが。
すると、ほぼみんな、斜め上を見て考えるんですね。
で、あのさ、君たち。
今、俺と君たちがこうして出会えて、こんな話が出来る。
それを、幸せとは感じないかい???ってね。
いま、幸せを考えるに当たり、君たちは上を見たろう??
幸せは、上にあるんじゃない。
いま、踏んでいるそれこそが 幸せなんだよ。
いま、踏む大地の上に、君たちがいられる事そのものが、しあわせって事じゃないか?
と、やるわけですよ。
今を、しあわせと思えるか、そうでないのか。
自己暗示みたいなものではあるけれど。
幸せとは そういうものでしょうな、
個々にみんな全て、しあわせの定義が違うでしょうから。
そもそも、幸せを語る大人がまわりにいなくて、それが、不幸なんですな。
”おれは、しあわせである”
と宣言すれば、
都会からやってくる学生なんかは 半数がその言葉に打ちのめされてるみたい。
大の大人が、俺はしあわせである なんて言うのを聞くのが初めてなんですね〜彼らは。
まあ、夢としあわせ とはちがうけれど、
いろんな、幸福への方向の断片をつなげて生きていきたいですな。
飢餓とか紛争とか いろいろあって、それを知らない訳ではない。
地球そのものの幸福が 私たちのしあわせであるのだろうが。
自然 というものを受ける心と身を持てる しあわせと
自然 というものに対峙できる精神を持てる夢と
まあ、諸行無常なんですな〜