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▼梅屋敷の由来   鈴木

さて、東京は大田区「梅屋敷商店街」にお世話になっているわけですが、
「なんで“梅屋敷”って呼ばれてるの?」ということで、調べてきました。

とりあえずは、商店街から歩くこと200mほどの「梅屋敷公園」へ。


↑入口付近から

↑休憩スペースから

●梅屋敷の由来

『梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(一八一八〜一八二九)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。
当時はのちの十二大将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。   大田区』

●梅屋敷と和中散売薬所跡

『「和中散」は食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(一六八八〜一七一六)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
文政年間(一八一八〜一八二九)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて休み茶屋を開いた。
亀土の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。   大田区教育委員会』

●明治天皇と梅屋敷

『梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致をこのまれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、このうめは仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後昭和八年(一九三三)に史跡として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。   大田区』

どうやら、“梅屋敷”という名前は薬屋・茶屋のお屋敷の名前(もしくは愛称)からきていたみたいですね。

さらに詳しい話は<梅屋敷探検隊>というサイトに載っているようです。
そのサイトによれば、もともと梅の栽培に適した地であり、平安時代には梅が多く植えられていたそうです。
また、このような茶屋を営んでいた屋敷が今では公園になっているのは、明治31年(1898)に起きた悲劇のようなある事件によって衰退していったとか。

なお、梅屋敷跡地は京急線の開通工事などによって、今ではごく普通の公園と同じ程度の広さにまで減ってしまっています。

現在の梅屋敷公園に植えられているさまざま梅。

↑白加賀梅、黒田梅

↑寒紅梅、豊後梅

↑冬至梅、大杯梅
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