▼あまり面白くない漫才。2009/06/30 22:06 (C) 珈琲豆屋です!
▼マキノ洋一・初枝の息子です覚えていてくださって、ありがとうございます。 昨夜「マキノ洋一・初枝のことを書いたブログがあった」という、お客様の話を伺って、検索してヒットしました。 マキノ洋一・初枝は、たぶん舞台をご覧いただいた頃が、漫才師として最期の頃だと思います。 20年ほど前に当時出演していた国立演芸場の舞台を降り引退し、夫婦漫才の幕を閉じました。 戦後すぐに始めたたつきの道としての漫才師でしたが、ご存じのように古くて、ヒットすることも無く、たんたんとした芸風のままでした。 夫婦漫才なので、仕事も一緒、生活も一緒、そして三年前、夫婦とも老衰で、相次いで亡くなりました。死ぬ時も一緒でした。 仲が良かったんです。 今、私の店には先代円楽師匠のお弟子さん、三遊亭円左衛門師匠と、お弟子さんが出入りされています。 円左衛門師匠のブログにも私の店を書いていただいておりますので、ご紹介させていただきます。 http://ageagegeinin.blog75.fc2.com/blog-entry-82.html 亡くなってから遺品と言うか、芸能関係の様々なものがありましたが、さいわいお弟子さんが貰ってくれたので、差し上げました。が、もうこれでマキノ洋一・初枝関係は終わりだと思っていたら、ご存じの方がいらっしゃって、こんな御縁がありましたので連絡させていただきました。 よろしくお願いします。 2010/12/02 12:52:牧野と申します:URL
▼牧野様、ありがとうございました。息子さんにコメント戴けるとは思ってもみなかったので、随分失礼な題名でご両親のことをネタにしてしまったこと、どうかお許しください。
実はちょっと前に三遊亭円左衛門師匠からもコメントをいただきました。 またこのようなことを書くと失礼にあたることは重々承知なのですが、どうしてもマイナー好みのところが私にはある気がしております。 hp拝見させていただきましたが、御祖父さんも講釈師という家柄にお生まれなのですね。 私はそういう環境にはいなかったのですが、高校から始めたバンド活動の末、現在米沢でビッグバンドをやっております。 東京の会社に勤めていたころ、バンド仲間に演歌&キャバレーで吹いているトランペットの先輩がおり、根岸のすぐそば鴬谷の今は亡きスター東京というキャバレーに連れてってもらい、舞台で吹かしてもらったことがあるのが数少ないプロとの接点でした。 その先輩がらみで、今は亡きコマ劇場、まだある日比谷公会堂、今は亡き池袋杯一、今は亡き新宿ハイツ、歌舞伎町オデオンなどの楽屋、および袖から覗かせていただいたりしていました。 そのラッパの先輩は、ショパン猪狩師匠にうちに入れとか、丸目狂ノ介(?)先生にかわいがられ、亡くなった玉川勝太郎先生の何十周年かの公演にも参加しているはずです。 HPを拝見してなるほどと思ったのは、根岸という東京の中枢に住んでらしたということです。マキノ洋一・初枝にはすごく「東京」を感じたことを思い出しました。しかもなんとなく丸の内のイメージの。この辺が田舎者の感覚なのですが。 長谷川町子先生が描く4コマ漫画の中で落語家は留さん文治であることが多いといわれていますが、漫才師を描いた4コマもあって、それがアコーディオンと三味線の男女漫才だったと記憶してます。もしかしたら,それはご両親がモデルではないのでしょうか。 2010/12/03 10:04:mameichi
▼昔は音曲漫才・歌謡漫才師が沢山いました。長谷川町子先生のマンガに同じスタイルの漫才師が登場しているのは知っていましたが、はたして当人かどうかはわかりません。
こういうスタイルの漫才師さんは、昔はたくさんいました。 こんな人たちもと書こうとして名前を忘れてしまいました。 実は芸能人名鑑のような本もたくさんありましたが、それらもお出での噺家さんに差し上げてしまったので、今となっては不明です。 が、いわゆる関西のかしまし娘のように、ギター・アコーディオン・三味線などの楽器を持つスタイルは、戦後の漫才師の一つの基本スタイルでした。 おしゃべりだけのトップ・ライト師匠、獅子てんや・瀬戸わんや師匠、東けんじ・宮城けんじ師匠さんたちのようなスタイルか、楽器を持つかだったのです。 そのいずれのスタイルも抜け出してデビューしたのがコント55号です。 初めのころは、両親もあきれていましたが、たちまち売りだしてスターになりました。 楽器を持つ古いタイプの漫才の人気が、下降しだしたわけです。 それでも自分たちでやめると言いだすまで、国立演芸場などへも出演で来ていたのは、内海桂子・好恵師匠のひきのおかげです。このおふたりが、両親の漫才をとても大切にしていただいて、いろいろな舞台を紹介してくれていたようです。 つまりクラシック・アンティークになりつつあった芸でしたが、逆にそこに価値を見出してくれていたのだろうと思います。 お話を拝見して「スター東京」とか、子どものころから見ていた看板名が沢山出てきて、懐かしいです。 三年前まで東京に住んでいた両親が亡くなってからは、もう東京へ行く用事もほとんど無く、スカイツリーが建設されているとかも、新聞で見るだけ。 今、住んでいる新白岡という土地は、埼玉の在で、20年前は一面の田畑だったそうです。 なんでこんな場所に越してきたのかと言いますと、父親・マキノ洋一が老衰でぼけてしまい、一緒に暮らしていた母・初枝も、面倒を見切れないというので老人病院を探したら、白岡に空きがあって入院させ、そこで亡くなりました。 つまり、終焉の地、というわけです。 その頃、私は埼玉大学から県立特別支援学校の校長になっていて、激務と両親の介護で体調を崩し、主治医から「もう1〜2年で、あなたも倒れますよ。」と言われ、みなさんに迷惑をかけたくないので退職いたしました。 退職してから専門の栄養学と運動で、どうにか生命が長らえそうになってきたところで、前から考えていた「障害者のための気軽な食事の店」を開こうと、不動産屋に相談したら、なんと、まさに父親の終焉の地の白岡を紹介されました。 それもなにかの縁と思って、昨年末に店を開いたというわけです。 円佐衛門師匠が出入りしていただけるようになったのは、実は谷中亭ふすま丸という噺家の卵の奥様が、私の妻の同僚(特別支援学校の先生)という間柄のためです。 もともとは、港区芝という、それこそまもなく代替わりしてしまう東京タワーのあたり、増上寺という大きな寺の門前町が本籍でしたが、幼稚園から小学校時代まで住んでいた処は、いわゆる東京の下町。 家の裏が芸者さんの置き屋だったり、寄席の楽屋で見かける噺家さんが浴衣姿で歩いていたり、先代の林家三平師匠がジョギングしていたりと言う、まさしく下町情緒あふれる界隈でした。 2010/12/03 12:18:牧野 要二
▼浜町に私のじいさんが商売で出張所を構えていました。
明治座の近くです。じいさんが亡くなったのが昭和45年、確か私は41年ごろ初めて上京したのだと思います。 何日か滞在したのですが、一回遊んだ浜町公園が楽しくて勝手にひとりで行ったり、初めて瓶入りの明治ヨーグルトを食べたのもこのときでした。確か近くにアダチ龍光先生と江戸家猫八師匠がお住まいだったと聞いたのか、どこかでお見受けしたのか、3歳児なので記憶は曖昧でございます。 2010/12/22 21:15:mameichi
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わたしにとっては、ということになりますが。
マキノ洋一・初枝という漫才師をご存知でしょうか。知ってる方は是非連絡を!語り合いましょう。
いまでは余り見られなくなりましたが、男性がアコーディオン、女性が三味線を持って出てくる古い漫才でした。
私が見たのは、米沢で行われた新春寄席という催しでした。多分毎年行っていたはずだが、私が見に行ったのはその時一回きりです。
マキノという片仮名の亭号を使っているところをみると、マキノ省三率いるマキノ映画の系統でしょうか。省三の息子で東映でエンターテイメントピクチュア(主に実録なんとかいうヤクザ映画とか清水の次郎長、、、これもヤクザ映画ですね)を撮っていたマキノ雅弘亡き後は、沖縄アクターズスクールのマキノ正幸(雅弘の長男)、津川雅彦(雅弘の甥)が映画監督のときに用いるマキノ雅彦がこの姓を用いています。
芸能の歴史の深さを感じます。アムロもスピードもこの上に乗っかっているわけですねぇ。
滋賀県高島市(高島屋発祥の地)マキノ町というのもなぜか片仮名です。
紅茶キノコなどを流行らせた出版社もマキノ出版です。
なぜ片仮名なのだろう。ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
さてこの漫才、たぶん最初から最後までほとんどくすりともしなかったと思います。だれもガハハなんて笑う人はいません。
だからといってそれが悪いわけではなく、口座にはいい風が吹いているのです。
筋はもう何十年もまえに書かれたもので、殆んどこのネタで来た方々なのでしょう。なにか軽いコント風のお話の落ちのあと、簡単なミュージックでブリッジする感じです。
だからお客の笑いがなくとも淡々とネタは進んでいきます。その進み方がまあ、自然なのですね。なんかフランス小咄みたいな感じもしました。なにをもってフランス小咄かは分かりませんが。
こういう漫才もあるし、これもいいと思います。20年ぐらい前の話です。その頃でもすごく時代錯誤を感じました。よくも平成まで残ったなと。もし健在であればまた見てみたいと思います。一回松尽くし(松を書いた扇をいっぱいにもって踊るやつ、現在では玉川スミ師はやれねぇかなぁ、90近いし)で花王名人劇場かなんかに出たような気もするのですが、はっきり分かりません。
17、8年前に談志師匠が書いた本に、懐かしの漫才としてマキノ洋一・初枝とありました。本人を見てから2,3年しか経っていなかったので、不思議な感じがしました。中央の歴史からは既に消えていたのでしょう。