▼竹田又右衛門さんを悼む。2009/03/09 21:24 (C) 珈琲豆屋です!
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今日友人が来て、又右衛門さんが亡くなったことをそっと教えてくれました。
私が出会った頃は川西町の教育長で、その前はフレンドリー・プラザの館長をされていたと思います。その前もいろんなことをされていたのでしょうが、私には分かりません。そのような要職に就いておられるが、アナーキーな感じは凄く伝わってきました。
2年前の冬、私は明治時代に米沢小松間に走らせようとした豊川炭鉱馬車鉄道という幻と格闘していました。
幻が少しずつ像を結んできた頃、又右衛門さんに出会いました。
川西町史にその鉄道のことが詳細に取り上げられ、川西町に書いた人を照会したところ現教育長が書いたということで、お会いすることになりました。
米沢の第一ホテルのロビーで、わたしは今まで集めた資料と自分が作った年表を持参して、話を聞いてもらいました。それから話はあらぬ方向に転がり、川西町文化財保護協会の総会で、その鉄道について、講演する羽目に陥りました。
それは凡て又右衛門さんのいたずら心ではなかったでしょうか。
こちらもその分野に関しては、特に史学科を出たわけでもないのでどのようにしてよいか分からず、又右衛門さんに原稿を推敲していただきました。
そしてつたない発表が終わると又右衛門さんは
「石塚君は声がいいねっ」と誉めてくださいました。内容は実際お粗末なものだったのですが、何か一つぐらいはほめてやろうという親心だったのかもしれません。
その後、爺さんの資料を整理したいのだが、というお電話を頂いたのですが、それきりとなってしまいました。
それから新聞に直江兼続の弟、大国実頼が晩年小松に隠遁していたことを竹田さんが探っているという記事が出て、元気でいらっしゃるものと勝手に思っておりました。(08.12.5山形新聞)
残念ながら、その後お会いする機会もなく、今年の年賀状を頂いたのが最後となりました。
珈琲屋を始めたというのをお送りして帰ってきたのが、写真の年賀状です。近いうちに来ていただけるとばかり思っていたので、、、
川中島の絵葉書を見ていただきたかったなぁ、と切に思います。
その年賀状の飄々として素晴らしいこと、、、
そして、悲しんでおられる方が数多いるであろうことを思います。
心よりご冥福をお祈りします。