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▼館長の写真日記 令和5年6月1日付け

 最上義光歴史館における最重要展示物のひとつが、最上義光が所用した兜です。正しくは「三十八間総覆輪筋兜」。義光が長谷堂合戦で着用し、鉄砲玉を被弾したという兜です。兜といえば最近は、オータニ選手が被るものとなっていますが、私の世代で兜といえば、兜甲児でしょうか。

 さて、この兜は米沢市上杉博物館の展覧会 「上杉景勝と関ヶ原合戦」前期展示(4月22日〜5月21日)に、軍旗(伝直江軍部隊旗)とともに貸し出されていたのですが、先日、前期展示期間の終了早々に戻ってきました。この期間、上杉博物館では1万人を超える来館者があったとのことで、この兜もそれだけ多くの方にご覧いただいたことになります。かつて最上と上杉とは敵対関係ではありましたが、400年経った今、兜を貸し借りする仲になったということで、まずはありがたいことです。
 ところで、この兜の鍬形台には、「竹に雀」の図柄の家紋が据えられています。家紋に興味のある方は、アレ?と思われたかもしれません。最上家の家紋は「丸に二つ引き(丸二両筋)」ではなかったか、「竹に雀」というのは上杉家そして仙台藩の家紋ではなかったかと。当館の学芸員にきいたところ、この時代、いくつもの家紋を持つのはよくあるとのことです。縁戚を結んだ際などに、引き出物のように家紋のやり取りがなされたそうです。ちなみに伊達家には八つの家紋があるそうで、最上家においても、主な家紋として「丸に二つ引き」、「丸竹に雀」、「五七桐」、「十六葉八重菊」を持つそうです。
 まずは、「丸に二つ引き」。室町幕府を開いた足利氏の家紋であり、将軍家の象徴ともなっています。その形は、丸の中に二本線というシンプルなものですが、紋の丸の中に引かれる線は竜をあらわし、二匹の竜が天に昇る様子とのことです。
 山形城を築いた斯波兼頼は、足利家の一門であり、続く最上家ではこの家紋を代々使用しました。また、義光は、足利家から「義」の字をもらっており、このことからも大切にした家紋だそうです。一方、「五七桐」や「菊紋」は天皇の紋であり、後醍醐天皇から足利尊氏が授けられた紋が由来と思われます。
 そして「竹に雀」。この家紋の元来の出所は、藤原氏北家から分かれた公家の勧修寺家と言われ、上杉家の始祖はその流れとのこと。一方、伊達家の家紋は、伊達政宗の大叔父の伊達実元が、越後の上杉定実の養子になる時にこの家紋を受けたものです。しかし今では、この「竹に雀」紋は商標登録されており、類似デザインであっても使用許可が必要とのことです。
 もっとも、最上家、上杉家、伊達家、それぞれの「竹に雀」紋のデザインはだいぶ異なります。二羽の雀が竹笹で丸く縁どられているのは共通していますが、最上家家紋は竹の内側の三か所から三枚ずつ葉がでるもの、上杉の家紋は笹が図案化されたもの、伊達家の家紋は竹の外側に笹が国連紋章のように取り巻いています。それぞれ別名で、最上笹、上杉笹、仙台笹とも言われています。
 家紋の中の二羽の向かい合う雀のくちばしは、阿と吽の形となっています。ところが、その元となっている勧修寺家の家紋の雀は三羽で、左右一羽ずつ、もう一羽は上から見た姿になっています。そのくちばしは隠れているのですが多分、阿吽、ア・ウ・ンの中間ではないかということで、素直にとれば「ウ」の形でしょうか。ウッ、と言えばマンボですが、いやいや、そんなはずは。もう一度、かの家紋をよく見ると、そのくちばしは阿も吽なく、雀はただ、上下左右に軽やかに舞っているだけでした。


最上家家紋 「丸に二つ引き」、「丸竹に雀」


勧修寺笹  上杉笹  仙台笹 (いずれもwikipediaより引用)


三十八間総覆輪筋兜とその鍬形台部分の拡大
織田信長より拝領したと伝えられる最上義光愛用の兜です。


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「最上笹」ピンバッチには、豊富なカラーバリエーションもあります。


2023/06/01 11:00 (C) 最上義光歴史館
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