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▼最上義光公拝領の獅子頭を追う

山形市の餌鷹神楽についての資料によると


現在、三日町二丁目の三浦健治氏が伝えている餌鷹神楽は、元は餌鷹町(六日町の内)にあっ

て、「霞城太神楽」と称し、代々山形城の御用を勤めて来た古い伝統を持つ神楽である。

延文元年(西暦1356年)に斯波兼頼の山形城築造に際し、初代和田幸太夫が、城の地固めの

ために神楽を舞ったのが始まりと伝えている。

和田氏は兼頼の時代に水戸から移って来たといわれることから伊勢神楽の主としたものであ

る。

和田氏は山形築城の地固め神楽以来、代々山形城の御用を務めるようになり、今に伝える獅子

頭は、最上義光から奉納されたと伝えられ、獅子頭の内部に、「文禄三年(1594)八月十五

日、奉納最上出羽守義光、稲荷宮太神楽」の刻銘がある。

和田氏は、城の鬼門に当る六日町の一角、極楽寺門前の餌鷹町に屋敷を与えられ、「神楽屋

敷」と称されて、士分の扱いを受けたという。


和田家は明治四十四年の山形市北部大火で全焼にあったが、最上義光公から拝領した獅子頭

だけが難を免れ、「生き獅子」と呼ばれるようになった。毎年正月元旦に鈴川町の印役神明

神社で舞初めをし、四月末日に蔵王温泉の酢川神社で打ち止めするまで、各町内を回って

悪魔祓いをしている。     


獅子頭の内部には「文禄三年(1594年)八月十五日奉納最上出羽守義光 稲荷宮太々神楽」

の刻銘(文字を彫って残す)がある・・・という。

この稲荷宮について調べてみると規模的にも十日町の歌懸稲荷神社のことのようだ。

斯波兼頼公が山形城の守り神として城内に建立したものだ。

また、現在の駅西口そばに壽(ことぶき)稲荷神社があり義光公が時代の鎮護の神の可能性も

ある。

南北朝時代、延文元年(1356年)は今から662年前。山形城築城の際に初代 和田幸太夫が

地固めを行ったのが始りなのだが文禄三年(1594年)の獅子頭の年代から更に238年も遡る

事になる。662年前にも獅子頭は存在していた事になる。



先日、上山の元太夫の佐藤氏の話から、山形市の和田幸大夫の子孫の方の名前が判明した。

昨日恐る恐る連絡をしてみると正にその通り、獅子頭も保管していらっしゃるとの事だった。

その伝説の「義光公拝領の生き獅子」は現在も存在していた。

私にとって、最近の出来事のベスト3にランクされる一大事である。





山形市の餌鷹神楽の呼び方も面白い点がある。

文禄三年の獅子頭には「稲荷宮大神楽」と刻銘にあり、城の御用を勤めてきたことから

「霞城太神楽」とも呼ばれている。その後、餌鷹神楽は六日町の旧名餌鷹町からの由来で

そう呼ばれたが、餌鷹とは「穢多下」という身分的に低い人々の事を指していたらしい。

江戸時代、芸人や神主など身分の低い職として虐げられる人たちが住む町だった。

また言い伝えとして、義光公が和田幸太夫に与えた神楽敷に訪れる際に必ず「幸太夫いたか

ー?(居たか)」と声をかけたという逸話も残っている。

            引用 山形市史 川崎浩良著「山形の歴史」三浦健治氏談




             
2018/03/18 17:28 (C) 獅子宿燻亭7
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